| 北緯35度42分 ─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』 Seibun Satow 「いったん息の根をとめてしまったあとなら、たとえ混沌のまっただなかにあろうと、あらゆるものが絶対確実になる」。 ヘンリー・ミラー『南回帰線』  俺は荻窪に住んでいる。もう20回もここで冬を迎えている。1986年3月、中野で物件を探していたら、名前は忘れたが、ある不動産屋に荻窪なら空きがあると紹介されて、ポロン亭傍のマンションに入居して以来、この町以外で住んだことはない。愛着があるわけじゃない。たまたまそうなっているだけだ。ただだらだらと生まれてこのかた最も長く住んだことになる。住所は4回、電話番号は3回それぞれ変えている。最初のマンションに12年、次が2年、その後が4年、今のところが2年だ。1996年築の四階建鉄筋コンクリート・マンションの一階の角部屋、2LDK、専有面積は48.73uを賃貸している。毎朝、洗濯物を乾した後に、クイックルワイパーをかけているが、黴と埃、髪の毛に悩まされている。冷えてきてからは結露も出てきたので、ついでに、それも古布巾で拭きとるようにしている。だいたいは二枚ですんでるが、湿気が多い日には三枚要る。  ここは、グーグル・アースによれば、北緯35度42分24.60秒、東経139度37分13.66秒、高度53mらしい。そこで「荻窪の風林火山」と呼ばれる俺のぬるま湯人生が続いている。 動かざること山の如し!  俺はあまり外出しない。金がかかるからだ。たまに誰かに呼ばれて、銀座に行く程度だ。でも、銀座はいい。今、資生堂パーラー前の中国人観光客やソニービルのロシア人家族が示しているように、アジアや太平洋、ロシアの購買力を表象し、海外市場とつながっている街だ。うちにはあまり人が来ることはない。付加価値の高さを売り物にする戦略をとっている。訪れるのはたいていは妹の友達だ。その中でも、今年、何度か遊びに来たのはエジプト・コプトのローズとモンゴル人のシネくらいだ。たぶん、俺の名前は知らないのだろう。いつも「お兄さん」と呼ぶ。お客には、教会通り名物ってことで、さとうコロッケ店のコロッケか丸徳鶏肉店の焼き鳥を出すことにしているが、来る時間が合わないので、ローズもシネもまだ食べたことがない。昔よく来たシリア出身のラニアは丸徳の焼き鳥を「おいしい、おいしい」と食べてたけど、ラニアはムスリマだから、コロッケは出していない。テレビやラジオ、新聞、雑誌、ネットなどグルメ情報を得る手段は事欠かない。固有名詞さえわかれば、ケータイから検索するのは簡単だ。おまけに、地図情報だってある。荻窪の名物に関しても、俺が詳細に描写するより、それらを使って自分で調べた方がいい。そうやって洞察を磨いていくことで、リテラシー能力は向上する。俺には、外国人の方が気が楽だ。豊富に話題を提供し、下にもおかぬもてなしまでしなくとも、相手に敬意を払えばだいたいOK。日本の伝統的なことを意識的にしているのも、別にアイデンティティのためじゃない。そういう場面での話のネタになるからだ。そのときのために、起源や由来、意味を調べておいいたりしている。3歳くらいなら、ブロック遊びに『あんぱんまん』の絵本、カレーライスで大喜びなのに、日本人とつきあうのは、なんせ、トヨタ2000GTのメンテナンスをするようなものだ。汚れは?傷は?エンジン・オイルは?ラジエーターの水は?…なかなか俺にゃあつとまらない。こっちは敬意じゃない。配慮だ。外国人は、何よりしゃべってくれるのがいい。自分の考えや経験を正しかろうが矛盾があろうが間違っていようが、調子がのってくれば、雄弁に語り続ける。それに、彼女たちの話を聞いて固定観念が覆されるのは快感だ。  名物と言えば、教会通りを歩いていると、時々、長寿庵のご主人による昔ながらの蕎麦屋の出前が見れる。これは感度物だ。長嶋茂雄がバッティングにおけるフォロー・スルーの理想形と賞賛したあの蕎麦屋の出前だ。かの自転車の姿は一見の価値がある。  ローズは、本当は、「ローズマリー」だが、ケント・デリカットのような話し方で、一人称を使わず、自分のことを「ローズ」と呼んでいるから、そうしている。ローズは日本のアニメが好きで、黒髪だが、『キャンディ・キャンディ』のキャンディス・ホワイト・アードレーみたいなヘー・スタイルでおめかししている。アラビア語のときは、エジプト・アンミーヤがほとんどで、積極的にはフスハーを話したがらない。石田あゆみ似のシネの本名は、教えてもらったことがあるけど、長すぎて覚えきれない。何度も聞き直すのもお互いに気まずくなるので、「シネ」にしている。カレン・カーペンターのような声で、ゆっくりと妙に艶っぽくしゃべる。  日本に「三本の矢」というエピソードがあるが、シネによると、モンゴルにはほぼ同様の「五本の矢」があるらしい。さらに、モンゴル人は保護する器具をつけた親指一本で弓を引くのだそうだ。また、「チンギス・ハーン」を「ジンギス・カン」と呼ぶようになったのは、フランスの研究者がペルシアの文献を使って調べ始めたためらしい。ローズに確認したから間違いないが、アラビア語に「チ」の発音はない。そこで、”j”の音を表すジームで置き換えて記していたのをそのままヨーロッパに紹介したというのが真相なそうだ。もっとも、ローズはエジプト人なので、意識しないと、「ジ」が「ギ」になる。こういうことを知るが俺は好きだ。  日本で生活している外国人は日本語を学んでいることも少なくない。その際に、敬語表現お琴をよく尋ねられる。そういうときにはこういう話をすることがある。  敬語は日本語のネイティヴ・スピーカーにも難しい。なぜなら、敬語はある一定年齢に達してから習得する言語だからだ。つまり、敬語のネイティヴ・スポーカーは、原理上、存在しない。難しくて当然。もし俺よりうまくできちゃうなら、俺の立つ瀬がない。だから、あんまりうまくなんないで。ま、それはそうと、敬語表現は、日本語に限らず、英語なんかでもセンテンスを完成させないという場合も少なくない。例えば、飲み屋のテーブルで上司に小皿をとってもらいたいとする。「すいませんが、お皿をとってくれませんか」よりも、「すいませんが、お皿…」と言う方が丁寧。なんでかって言うと、文章上は上司に頼んだことにはなっていないから。あくまでも上司が部下の思いに気がつき、心配りのできる上司として振舞ったということになっている。性格の悪い上司なら、もしセンテンスを完成させた方だったりすると、「私は皿回しの助手か?」って嫌味を言われるかもしんない。依頼は命令あるいは指図でもあるんで、目上の者に直接的な表現を用いるのは失礼にあたるってもの。ね?  外国人たちと話していると、日本人が曖昧な表現が多いと愚痴をこぼすことが多い。でも、曖昧な表現はどんな言語にもあるし、必要だ。社会は複雑。単純に考えてはいけない。とは言うものの、コミュニケーションする際の日本語のセンテンスは、メッセージと態度表明によって構成されているが、近頃、この後者の部分がやたらと長い。OLが上司に「あのー、すいませんけれども、もしかして、それって違うんじゃじゃないでしょうか?」と言った場合、「違う」がメッセージであり、その他はすべて態度表明である。まあ、若い人は経験がないから、どう言っていいかわかんない。それで、態度表明を増やす。金田一秀穂は『日本語のカタチとココロ』でいい喩えを使っている。コミュニケーション自体は料理で、メッセージは食材、態度表明は調理。一番大切なのはその料理を出された人がおいしいと満足できるかどうかだけど、評判のいい日本のレストランじゃ、シェフが出てきて、食材と調理をしゃべり始める。なんだかんだ言って、コミュニケーションからではなく、自分本位なんだな。料理自身でコミュニケーションしなきゃ。  ローズやシネには名で声をかけるけど、日本では元々は人を姓じゃなく、名で呼ぶことは、よくないとされている。目上だろうと、上司だろうと、そうしてはいけない。呼んでいいのは親だけだ。名で呼ぶことはその人を自分が支配しているという意味になる。  金田一秀穂は、『ふしぎ日本語ゼミナール』において、固有名詞について次のように述べている。  言葉はふつう、いつか誰かが作ったものですが、そのときに立ち会うことは出来ません。「ヒト」を「ヒト」と呼び始めたその最初の瞬間には、誰にもわかりません。  しかし、固有名詞は、いつ、誰かがそう作ったのか、わかっています。あるいは、調べればわかります。「大和」とか「武蔵」など、古い地名は難しいです。しかし、「光が丘」にしろ「さくら市」にしろ、いずれ公募で選ばれたり、偉い人の一存で決まったりしたのだから、その言葉ができる瞬間を知ることができます。  固有名詞は、私たち誰でも作れる言葉なのです。  その反面、固有名詞は一番忘れやすい。高校時代に「濡れ場先生」というあだ名の英語教師がいたが、俺は彼の本名を何としても思い出せない。リーダーの授業で、『ロミオとジュリエット』を教材にしたとき、二人が結ばれるシーンを「濡れ場」と言い表わしたために、そう呼ばれるようになっている。かくのごとく、固有名詞は忘れられやすいと同時に、命名の瞬間に立ち会える語である。  今日は2007年12月22日。冬至だ。カボチャを食って、柚子湯に入る日だ。昨日は金曜日なのに、NHK教育の『わたしのきもち』が休みで残念だ。『ピタゴラスイッチ』や『ストレッチマン2』と並んでお気に入りなのに!中でも、「キモッチ」がいい。もう10時をすぎている。夜から雨という予報だったが、もうパラパラきている。洗濯物は屋内に干さなきゃなんない。ミケラン点眼液の苦い味が鼻の方から口に広がってくる。11時からWOWOWで映画『ザ・センチネル/陰謀の星条旗』が放映される。ま、とりあえず、見よう。しかし、一人だけしゃべっていると俺がまるで馬鹿みたいだ。  さっき杉並中央図書館から注文していた本が届いた妹に伝言して欲しいと電話があったけれども、それはエフライム・ハレヴィ著『モサド長官証言「暗闇に身をおいて」』に違いない。俺があいつに頼んどいた本だ。妹はコーランを読みに代々木に行く予定でいる。ムスリマじゃなく、アラビア語をより向上する目的で毎土曜日に通っている。だいたい、実家は隠し念仏だ。今はちょうどハッジの時期だ。今年はクリスマスとも重なっているから、否が応でも、「中東」(この場合は「西アジア」よりこちらの方がふさわしい)で信仰心が高まる。コーラン学習は午後からだが、その前に、第一次インティファーダにおける子供のことを調べるために、9時頃、中央図書館に出かけている。メッセージをあいつにメールしておいたけど、まったくまぬけな話だ。同じ館内にいるのに、中央線の線路の向こう側にいる俺を通して連絡しあっているんだから!  もっとも、俺も妹の居候みたいなものだ。妹は、ここのところ、うちにいると、いつも「寒い、寒い」と言っている。エアコンのスイッチを入れていないからじゃない。あいつの体温が低いせいだ。俺の平熱が37度4分くらいだというのに、35度5分しかない。エアコンのリモコンは、今見たら、室温を「18℃」と表示している。18℃と言えば、5月の東京の平均気温にほぼ近い。おまけに、部屋の中は無風だ。俺は色落ちしたゴルフの黒い靴下、首筋の辺りが赤茶けたへインズ、型崩れしたセンチュリー・ハイアットの白地の浴衣に、くすんだオリーブ色のアクリル100%の毛玉が目立つガウンで大丈夫だ。なのに、あいつは、洗いざらしのリーバイスの下に水色のPLAYBOYのパジャマのズボンも履いている。70年代のサウス・ブロンクスのギャングじゃあるまいし!  妹は俺を『タンタンの冒険旅行』のハドック船長とビーカー博士を足して2で割った人だと思っている。その妹はよく俺に、”I have no money, no resources, no hopes.
  I am the happiest man alive”と言う。「俺は金がない。手に職もない。希望もない。俺はこの世でいちばん幸福な人間だ」。これはヘンリー・ミラーの『北回帰線』の最も知られた一節だ。でも、こいつはアイロニーじゃない。俺にはよくわかる。  俺が読んだヘンリー・ミラーの『北回帰線』は大久保康雄訳の新潮文庫だ。手元にあるのは「昭和六十一年六月十日二十八刷」の版で、背表紙が薄いレモン色に変色している。夏休みの前に、ちょっと斜に構えてみるつもりで、ブックセンター荻窪に560円を支払ったが、これにはまっちまう。他のヘンリー・ミラーの作品は国際基督教大学の図書館にあった全集で読んだ覚えがある。当時、エントレランスから入って右手にある階段で二階に上がったら、南側の窓まで進み、それに沿って西に向かい、五つ目か六つ目のレーンの軟で安っぽいベージュのスチール製書棚に新潮社版の全集が置かれていて、確か、全12巻のうち第2巻だけ抜けていた記憶がある。そういやあ、あのヴァルター・ベンヤミンに似た司書は今どうしているだろう?しょうがないんで、『南回帰線』が収録されたその巻は杉並中央図書館で借りている。  悪くない訳だと思うが、ヘンリー・ミラーには「ぼく」より、「俺」の方が似合う。「ぼく」は吉田松陰が「学問の下僕」として自分を「僕」と呼んだことに由来している。一方、「俺」は「我」の俗語だ。この漢字は音読みでは「エン」で、ニンベンと奄から成っているが、ツクリの部分は「我」の意味の俗語の音を指して使われている。この語源を考慮するなら、「俺」の方があっているから、「俺」に置き換えてテキストから引用することにしている。  母は僕の顔を優しく覗き込んで言った。「こちらへ来てわかりましたが、私たちが地上で信じていたほど書物は重要なものでもないのですよ。此処には新聞も雑誌も本もありません。ここでは会話自体が本を書くことであり、本を読むようなものなのです。頭痛に悩まされることもなければ、お腹痛になることもありません。日々、私たちは人生についての広い視野を手に入れ、自分自身に対しても他人に対しても、より寛大に、より穏やかになっていくのです」(略)  母の言葉はますます僕を感動させた。かつては鉄のダンベルのように僕に重くのしかかった母の言葉が、いまは知識の泉のようだった。 (ヘンリー・ミラー「母」)  こういうことは漢字にはよくある。鴨や鶴、鶏などの鳥を表わす字がそうだ。ヘンの部分はその鳥の鳴き声に相当する音の字を当てている。鴨は甲のある鳥というわけではなくて、甲と鳴く鳥のことを意味する。ある種、ヒエログリフに似ている。そのため、漢字を「表意文字」ではなく、「表語文字」と考えるべきだと相原茂は『はじめての中国語』で主張している。  日本語には、文字は中国語系、文法は朝鮮語やモンゴル語、トルコ語系、発音はポリネシア語系が入り混じっている。言語は文字、文法、発音の順で変わりにくい。それに基づいて、ポリネシア語系の人々がまず日本列島に到達し、その後、大陸から渡ってきたのではないかという説がある。ダイナミックな歴史が感じられじゃないか!  他の作品にも、深い洞察や鋭い指摘、ユニークな見解が溢れているが、ヘンリー・ミラーの最高傑作はやはりこの『北回帰線』だろう。後の作品はそのヴァリエーションだと言っても過言ではない。インパクトという点では見劣りする。ヘンリー・ミラーは成長発展すると言うよりも、すでに獲得しているスタイルを最初から最後まで貫き通す。ハンフリー・ボガートが誰を演じてもボギーであるように、ヘンリー・ミラーは何を書いても実質的には『北回帰線』だ。  『北回帰線(Tropic
  of Cancer)』ってのは奇妙なタイトルだが、北回帰線は赤道の北、北緯23度27分にある緯線のことだ。地球の自転軸は公転軌道面に対して23度27分傾いているので、太陽光線が地表を垂直に照らす部分は一年周期で変化する。北回帰線は熱帯の北限で、夏至の日、つまり6月21日ごろに、正午に太陽が真上を通過する最北端の線だ。英語の” Tropic of Cancer”は「蟹座の回帰線」という意味だが、古代バビロニアの頃には蟹座の領域に夏至点があったためである。荻窪の南口に「金の蟹」という蟹料理の専門店があるが、そこでランチに俺がかにすき御膳、妹が金の蟹弁当を食べながら、このエピソードを話したことがある。あれは、YouTubeで見つけた”Festival de Viña 2007”で”If l Only Knew”を熱唱するトム・ジョーンズをルチアーノ・パバロッティと見間違えた日だ。しかし、あれじゃあ発表した頃の3倍の体積あるんじゃねえか?北回帰線はベトナムやサウジアラビア、アルジェリア、メキシコ辺りを通っている。ずいぶんと異なった気候のところを横断している。こう考えれば、その混沌とした印象にはふさわしいタイトルだ。  確かに、俺は定職についたことがない。バブルにもかかわらず、就職に失敗して以来、落ち続け、今では面接にさえこぎつけられない。それには、サブプライム・ローン問題や建築基準法の変更による直接的影響はない。考察に最も重要なのは洞察だ。問題解決は解くだけではない。解けないことを見抜くのも解決だ。それには洞察が要る。俺がこうなったのはその解けない問題に含まれる。で、俺は文芸批評家だ。小説家じゃない。小説家になりたいと思ったこともない。俺は何を見るときも批評家としてそれに触れる、スポーツだろうと、料理だろうと、何でもだ。書くためにそう見える。その際、リテラシーに着目する。「リテラシー・スタディーズ」を提唱しているが、世間からの反応は特にない。リテラシーは、通常、識字力と見なされているが、OECDのPISA調査が示している通り、ある分野・領域における通時的・共時的に共有されている固有の知識・認識・技能などのことだ。それがそこの固有さにつながっている。  リテラシーを知らなくても、確かに、芸術は味わえる。ロベルト・シューマンの『ピアノ五重奏曲』変ホ長調作品44もそうだろう。でも、知識があれば、こういう楽しみ方だってできる。「ある旋律が何調であるかは、どの音を使い、どの音を使わないかによって決定されるが、これを逆手に取った書法もある。(略)シューマンの《ピアノ五重奏曲》変ホ長調作品44の第1楽章の主題であるが、この主題の場合、2番目の和音に早くも主調である変ホ長調を否定する変ニの音が登場する(変ホ長調の旋律であれば、「変ニ」ではなく、「ニ」音を使用するはずである)。しかし、最後に置かれた変ホ長調の属和音─主和音の進行によって、この旋律は変ホ長調に落ち着く。このあたりがシューマンの旋律構成法の巧みな点であろう」(笠原潔『西洋近世の和声』)。  で、俺は毎日書くようにしている。調子の悪いときにはそれなりのことをする。そうしていると、自分の都合じゃなく、読者を主体にせざるをえないから、自分から自由になれる。それは自分を他者として考えることだ。プロというのは毎日することだと思っている。金をもらっている云々じゃない。  俺は無名で、オケラときている。去年までは、講談社文芸文庫の文献目録や年譜作成などで書いたものが少しは金になったが、2007年の年収は0円だ。年金の掛け金 も、医療費も自分では払えない。姪にお年玉一つあげられない。生活のたしに、俺は、春や夏には、空きスペースに野菜を植えている。春菊と三つ葉が終わったら、次のニラと大葉の季節が来る。プチ・トマトを植えたけれども、あれは失敗だ。いつまで経っても赤い実がならないので、おかしいと思っていたら、ある朝早く起きたときに、その理由に納得する。カラスだ。  おまけに、持病の緑内障が芳しくなく、視力も弱くなっていく一方だ。どうやっても両眼共に矯正視力が0.3を超えることはない。フリードリヒ・ニーチェやジェイムズ・ジョイスと同じく、弱視だ。それに飛蚊症まである。バイトを探すのも楽じゃない。三度の食事をつくり、妹の弁当をつめ、洗濯をし、放送大学を見て、風呂を洗い、日用品や食料品の買出しに行っているうちに、一日が終わっている。  俺が出勤する一時間前から、すでに志願者がぎっしりつめかけていた。俺は事務所の階段をのぼるのに、文字どおり人の波をかきわけていかなければならなかった。帽子をぬぐひまもなく、しばらくは電話の応対に忙殺される。机の上には電話が3台あったが、それが同時に鳴り出すのだからたまらない。しかも、待ちかねた志願者たちは、俺が腰をおろして仕事にかかる前に、口やかましくわめきたてるのである。こうして、午後の5時か6時まで、小用をたす時間すらなかった。 (ヘンリー・ミラー『南回帰線』)  スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』などを参照しつつ、柴田元幸は、『アメリカ文学のレッスン』の中で、あからさまな性描写ばかりが着目されがちだが、『北回帰線』の主人公が最も関心のあるのは「食べること」だと指摘している。きわどい性描写は、多くの場合、他の登場人物に関してなされているし、冒険的なセックス・ライフに耽っているのは彼らであって、主人公は時々性に興味を示すこともあっても、「ほとんど投げやりといいう印象」ですらある。  「お前ときたら、俺が食事の話をするだけで目をぎらぎらさせるんだからな!」とカールは言う。そのとおりだ。食のことを──次の食事のことを──考えただけで、俺はいっぺんに若返る。食事を! つまりそれは、何かめざすものがあるってことだ。何時間かみっちり働くとか、ひょっとしたら勃起するとか、それは否定しない。俺には健康がある。しっかりたくましい動物的な健康が。俺と未来のあいだに立ちはだかっているものはただひとつ、それは食事だ、次の食事だ。 (『北回帰線』)  ヘンリー・ミラーにとってだけでなく、食べることがどれだけ大切かは、あるゲームの開発秘話からもわかるだろう。1980年、ナムコのゲーム開発者だった岩谷徹は、マーケット拡大のために、男性に独占されていたゲーム・センターに女性客を呼びこむにはどうしたらいいかと女性の関心事について綿密なリサーチを始める。そこでたどり着いた結論は「女性の興味は食べることにある」である。女性は食事の後にデザートを口にしているではないか!そのコンセプトに基づいてあれこれ考えていたときに、宅配されたピザからワン・ピースをとった瞬間、岩谷はそれをキャラクターのデザインとすることを思いつく。「パックマン」はこうして誕生する。2005年、「パックマン」は「最も成功した業務用ゲーム機」として『ギネス・ワールド・レコーズ』の認定を受けている。  ヘンリー・ミラーはほとんどの場面で、「投げやり」だが、食事は別だ。とにかく三度三度の飯にどうやってありつこうかと苦心している。なるほど、最大の関心事は生き延びることに間違いない。金も職も希望もないけれども、三度三度の食事にありつき、生き延びている。それも、少なくとも読んだ印象では、決してわびしい食い物じゃなく、れっきとした料理だ。これができてんだから、食っていくために、あるいは誰かを養うために、嫌な奴に頭を下げることもないし、人間関係に煩わされることなんかない。将来の人生設計を立てて、自分をそのマトリックスに押しこめることもない。失うものは何もない。  せっかくの自分にとっての人生というドラマなのに、早くから計画を固めてしまって、その通りに進むのではつまらない。実際には時代のほうが変わってくれるので、思ったようになることはあまりない。そのときに、計画を優先していると、思ったことにならないことがマイナスになってしまう。それよりは、人生のドラマの転回のきっかけになると、プラスに考えたほうがよい。転ばぬようにしたいが転んでしまうこともあるのが人生で、せっかく転んだからには、なにかを拾ったほうが得。  このことは自分の生き方のようだが、人間の文化というものは、そのようにして発展してきた。計画によって進んだのではない。人生のドラマは、人間文化のドラマと似ている。ぼくだって、小さな計画くらい持つことはあるが、それは理想としてではなく、進路のための一種の必要悪と考えている。大学にいたころ、いちばん嫌だったのは、いろんな将来計画を作文させられることだった。何が創造の府だ。計画通りに進んだりしたら、創造なんてない。未来は、人間のちっぽけな創造を超えているからドラマなのに。 (森毅『地図にない未来』)  ヘンリー・ミラーは、アメリカでは、みんないつの日か「大統領」になることしか考えないが、フランスにおいては「誰もがみな、潜在的にはゼロだ。もし何か一丁前の人間になったとしたら、それは偶然であり、奇跡なのだ」と言い、だからこそいいんだと次のように記している。  だが、まさにチャンスがほとんどないからこそ、希望がほとんどないからこそ、こっちでは人生も楽しい。一日、一日ただすぎていく。昨日も明日もない。気圧計は一向に変らないし、旗はいつだって半旗になっている。(略)とにかく、絶対に絶望しないこと。  カールとヴァン・ノーテンに俺が毎晩やかましく言っているのもその点だ。希望のない世界、だが絶望もなし。  未来志向のアメリカを否定し、現在志向のヨーロッパを肯定しているというほど大袈裟なもんじゃねえ。「ロシアでは悲しい顔を見るのをいやがる。人が陽気で、熱狂的で、快活で、楽天的であることを欲する。これはぼくには、すこぶるアメリカに似ているように思えた。俺は生れつき、そのような熱狂さをもっていなかった」(『北回帰線』)。目標を持って生きることの矛盾がヘンリー・ミラーにはよくわかっている。かりにうまくいったとしても、そこで得られるのは達成感であって、人生自身の楽しみではない。人生自身の生の楽しみが彼の生活にはある。なんだかんだ言いながら、やりくりして生きていく。それは自分自身から自由になることでさえある。  ヘンリー・ミラーは、『ランボー論』において、中世では善や悪は生の形でありえたと次のように述べている。  中世の人々が魔王の存在を認め悪の力に正当な敬意を払っていたことは石や写本の証拠から明らかである。しかし中世の人々は神についてもまた認め、信じていた。したがってその生活は強烈で豊かなものであった。いわばすべての音が鳴り響いていたのである。  そこでは、善が善として、悪は悪として振舞い、何らの倒錯もない。ヘンリー・ミラーが追求しているのはあらゆるものにおけるこうした生粋の姿である。  先の引用が示している通り、ヘンリー・ミラーにとって、むしろ、性は食の延長である。文化人類学的には、性を食の代替行為もしくはメタファーとして捉えることはありふれているだろう。しかし、ヘンリー・ミラーにとって重要なのは性を審美主義的に把握していない点である。性にまるで文明を根本から変革するような役割を見出したり、押しつけたりするようなことはしない。性は、食同様、暮らしの一部だ。  なるほど、性は食の延長にあるかもしれない。俺もこんな夢を見た記憶がある。ただ、いつ見たのかまでは思い出せないし、途中からしか覚えていない。  俺は、自分の部屋のベッド上で四つんばいになった長い黒髪の女性をバックからついている。彼女は、肌の色は違うけど、『トラフィック』でのキャサリン・ゼタ=ジョーンズに似ている。あの映画は、たぶん、10数回は見ている。  実際に、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの夢を見たこともある。映画『ザ・ファントム』でのキャサリン・ゼタ=ジョーンズがベッドに潜り、スースーと寝息をかいている。その脇で、引っ越してきた俺が段ボール箱から森毅の本をとり出して、本棚にしまっている。机に目をやると、書類やら何やらが積まれ、その山の頂の辺りから雑誌が垂れ下がっている。”VO”の文字が見えるから、おそらく、”VOGUE”だろう。後は何も覚えていない。これは何年か前の初夢。何も、映画『デート・ウィズ・ドリュー』ならぬ『デート・ウィズ・キャサリン』を撮ろうと思ってなどいない。ちなみに、PCの壁紙にはマリリン・モンローを採用している。  俺はわりに夢を覚えている方だと思う。別に忘れないようにしているわけじゃない。登場人物はともかく、いつも妙なリアルさがあって、目を覚ました後に、面白いかとよく誰かに話しているからかもしれない。ちなみに、今朝の夢では。何かを洗濯していて、洗濯機の推量が「L4」と表示していたことを覚えている。  おまけに、多くの夢の中では感触がないと言われているが、俺の場合、目が覚めた後まで、時々触感が残っている。もちろん、それは弁慶の泣き所をテーブルの足にぶつけたときのような強烈な奴じゃない。ふんわりしていたり、しっとりしていたりする。  彼女は両肘をベッドに押しつけ、ヒップを高く上げている。気管をこするような息の音がリズミカルに響く。ベッドはほとんど音もせず、軽く沈むだけで、スプリングの強さが膝から伝わってくる。俺と彼女は、顔をつき合わせてはいないけど、カタジャクを楽しんでいるようなもんだ。かぶりつきたくなるような大きな尻だ。浅黒い肌にうっすらと桃色がかったように見える尻を軽く平手で叩くと、実のしっかりつまったいい音がする。いや、果物と言うよりも、肉だ。20年位前に一度だけ食べた前沢牛の腿肉のタタキを思い出す。22年前に死んだ獣医の祖父だって、尻をパーンと叩いて「いい牛だ!」と太鼓判を押してくれるはずだ。後からつくと、大げさではなく、そのリズムの2対1の割合で、バストは1m以上あり、おそらくJカップの胸がユッサユッサと揺れるのがわかる。背中からじゃ見えないけど、ベッドにつきそうだというのが感じる。俺には女性のバストのカップ・サイズを当てられる特技があるから、間違いない。本当だ。俺にはおっぱいのイデアが見えるんだ!振り子運動の基本原理通りだ。Dカップと比べると、支点から重心までの長さがあるため、周期はゆっくりとなる。  これを含め、性行為には三角関数で表わされることが多い。その意味でも、三角関数は極めて字湯陽的であり、高校生諸君はそう理解してしっかりに勉強に励んでもらいたい。先生はそう思っています。  最もイデアが見えるおっぱいとは、例えば、誰か?それは、わかりやすいところで言うと、ドリー・パートンだ。食べられそうではないか! 俺は小細工などしない。王道を行く!  バストの見た目は肩幅と身長、筋肉の質、皮下脂肪の具合、肌質によってほぼ決まる。同じカップ・サイズでも、肩幅が広ければ、谷間は広がるし、身長が高ければ、上半身に占める面積比は狭くなる。喫煙する女性の場合、毛穴が開き、肌のきめが粗くなり、くすんだ感じとなるので、胸が乾いて見えてしまう。胸だけで大きさや形を論じるのは本質的ではない。また、シリコンやパットを見抜くのも容易だ。いずれも密度と重力の影響が現われる。胸に詰めた場合、形状がボールのように丸くなり、歩いても、脂肪と違い、それほど揺れない。パットは、当然、密度が脂肪より小さいので、揺れが軽くなる。胸も身体という全体の一部なので、その部分だけを変更しても、関連性の点でしっくりいっていないため、そこだけ突出し、不自然となってしまう。ただ、俺はこうした工夫を否定しない。一つの知恵として肯定的だ。そもそも、俺自身にそういうこだわりはないけれども、女性は「男に媚びない嫌味じゃないダイナマイト・ボディ」を目指していると確信している。バストに関してはいくらでも続けられるが、この辺にしておこう。  そうそう、各種の調査によると、個別の好みは別として、女性を正面から見て、魅力的と感じられるヒップとウェストの比率は1対0.7なそうだ。これはどの文化圏でも結果は同じらしい。理由は定かではないが、女性の寿命のうち繁殖に適している時期の体型がそうだからではないかと推測されている。年齢という概念がなくても、これなら適齢期になっているかわかるというわけだ。繰り返し言うが、個別の好みとは別だ。例えば、俺は、胸同様、お尻も大きいのがお気に入りだ。  突然、リビングの固定電話がルイジ・ボッケリーニの『メヌエット』の電子メロディを鳴り出す。放っておいたら、留守電に切り替わり、イギリス人の妻の声がする。  「イナイノ?西友ニヨッテカエルカラ、何カ欲シイモノガアッタラ、聞コウト思ッタンダケド」。  妻は日本語を使いたがる。  本当なら携帯電話にかけそうなものだが、そこは夢。いちいちつっこんではいけない。第一、俺はチョンガーだ。夢の中では納得しているけれども、起きてよくよく考えてみれば、辻褄の合わないことだらけなのはこの俺自身がよく知っている。  さっきまで気づかなかったが、教会通りの有線放送から大バッハの『無伴奏バルティータ第2番』が流れている。誰の演奏かまではわからない。  “The witch is coming back!”  俺は、そう喉の奥から声を搾り出し、汗ばんだ彼女の胸を背後から鷲づかみにして上体を起こし、そおっと腰を引いて、探検中のリトル・インディ・ジョーンズを呼び戻す。外の世界に出た彼は赤ベコのように首を振っている。胸の感触はさばいたばかりのホタテの貝柱を思い出す。父に漁協の教え子から贈られてくるお歳暮のあれだ。彼女の背中から新鮮な汗と柑橘系のすっきりとした香水の交じり合った香りがする。彼女は俺より10cm以上も背が高い。180cmある。俺は、ピンクのイヴ・サン=ローランのタオルケットの中から、無印の黒のボクサー・パンツを捜し出し、寝転がったまま、前後も確認せず、右足をつっこむ。話が違う、せっかくゆっくり会えると思ったのに、奥さんが戻ってくるのは今夜遅くじゃなかったのと英語でぶつぶつ文句を言いながら、ベッドに腰かけ、枕元に置いた薄紫のショーツをとり、履き始める。彼女はrの発音が巻き舌になる。俺は早口だ。で、二人共に英語がネイティヴじゃない。  鏝を用いての労働は、このうえもなく好ましいものであった。女性という動物が、とつぜん情感につきあげられて床に伏し、よろこびと過度の昂奮のために虚脱状態におちいるとき、それより一刻も先んずることも遅れることもなく、約束の高原が、霧のなかから影をあらわす船のように、視界にうかんでくるのであった。もはやなすべきことは、その高原に星条旗をうち立て、これをアメリカ合衆国と聖なるすべてのものの名によって領有することのみであった。あらゆる人間が、すくなくとも一度は、この領土に旗を立てたことがあるはずである。しかし、永久にその領有を主張しえたものは、ひとりもいない。それは一夜にして――場合によっては一瞬にして消滅してしまうからである。 (ヘンリー・ミラー『性の世界』)  俺はシャツを着るため、ベッドから降りる。ふと目をやると、水色の汗とり用のベッド・カバーに濃い紫の染みがある。  “What?”  彼女が口に両手をあてる。  “No!”  “Blood?”  “Maybe”.  俺は両手で頭を抱える。  “Come oooon!”  “Sorry!”  “You told me it had finished, just right?
  Your period must be over yesterday! I’m sure you said so. You remember it?” “Yes. I’m sorry, so sorry. It’s wine!”  “Wine? It’s wine? It’s the bloody wine?
  Sure! It made us happy so…but your blood is wine? You are Jesus Christ? Ha?”  “That’s too much!”  “Ah…sorry. Sorry. You are right. That’s
  too much. I have lost my mind. OK! OK! Don’t worry! Don’t you worry! We still
  have time”.  俺も彼女の右に腰を下ろし、左腕を腰に回して、唇を重ねる。瑞々しい蜜柑の房のようだ。母が毎年寺本果実園からとり寄せていたノンワックスのあれだ。俺は斜頸だ。首は左にしか回らない。右の掌で彼女の左手を握りしめる。大きな手だ。安心感がある。  “Here we go!”  俺は、床に散乱していたモスカラシ色のソックスと濃紺のリーバイス505を足に引っ張り上げ、白のコムデ・ギャルソンのTシャツと牡丹色の長袖のシャツを頭からかぶる。彼女は立ち上がり、少し前かがみになって、上をつけている。大急ぎでベッドからカバーを外し、部屋の正面にある浴室に飛びこみ、日立のPAM洗濯機に叩き入れ、スイッチを押す。呑気な電子音にいらつきながら、スプーン3分の2杯のブルーダイヤを回し入れ、キャンップ半分のハミングを柔軟仕上剤用のポケットに少しこぼしながら注ぎこむ。  部屋で着替えを続けている彼女にこう言って、台所に向かう。  “Hurry, hurry! Quickly, quickly!もたもたするなー!”  “I understand it!”  彼女が料理したトマトのパスタ、生ハムのサラダ、ラムのステーキ、アボカドとエビのスープを食べた食器やワイン・グラスを勢いよく洗い流し、布巾で気持ちだけ拭いて、食器棚に戻す。  黒っぽいスカート・スーツに着替えた彼女はリビングに来て、薄茶色の小物入れからメーク道具をとり出し、化粧を直し始める。そんなに詳しくないが、たぶん、ブランド名は…ダメだ、割にカチッとした感じのスーツということ以外思い出せない。俺の部屋は北向きだからもう暗いが、こっちはまだ陽がさしている。  俺は、ワインのボトルとトマト缶を洗浄し、ろくに水も切らないまま、資源ごみを集めている黒霧島の段ボール箱のところへ持っていく。幸いなことに、回収日は翌日だ。エビス・ザ・ブラックの500ml缶やカゴメのトマトピューレの瓶などで山積みになっている。物的証拠はその奥に隠す。  残り香を消さなきゃ。お気に入りのポマード「ダッパダン」の横に置いた「ハバナ・オーデトワレ・ナチュラル・スプレイ」をとり、部屋中にふりまく。妻は俺が不器用だということを知っている。またこぼしたんだと勝手に解釈する。いや、してくれるはずだ。  だいたい、俺の体臭が彼女の香りに負けるわけがない。俺の体臭は強くしかも独特らしい。妹によると、胸毛があって、割れた顎をしてるというのに、男臭さはまったくないけど、「ムアッとする」のだそうだ。他の女性たちも同様の表現をする。2年前にダマスカスから戻ってきたとき、マンションのドアを開けると、その匂いが鼻に飛びこんできて、ああ本当に家に帰ってきたんだなと実感したと妹は言っている。具体的にはどうなのかと問いつめると、「シナモンとクローブ、ナツメグをふった豚の肩ロースをバターで強火でソテーした感じ」と妹は答えている。そうか!これに塩と胡椒、ガーリック、レモンがあれば言うことなし。ずいぶん美味そうな匂いだが、こってりしているので、胃の弱い女性からは嫌がれていることはまず確実だ。待てよ、だからか、猫にもてるのは。この間も…いや、そんなことを話している場合じゃない。緊急事態だ。  その間に、彼女は、洗濯機の隣にある洗面台の鏡の前に立ち、ヘアー・スタイルと服装を整えている。  “OK!”  そう言うのが聞こえたので、俺はリビングに置いてあった年季の入った飴色のトートバッグをとり、脱衣場から出てきた彼女にそれを渡す。  「ドモアリガト」。  「ドイタシマシテ」。  彼女は鞄を一旦アイボリーの玄関マットの横に置き、下駄箱の上の靴ベラをとり、軽くかがんで靴を履く。その黒いプラスティックを元に戻し、彼女はこっちを向き、俺と目を合わせようとする。俺は、その広い肩幅を確かめるように、腕を背中へ回し、抱きよせる。  ”I love you. I’ll call you soon”.  こう言ったその瞬間、ドアの鍵の回る音がする。間に合わない。  「タダイマ」。  ドアが開き、左手でウィチブレイドではなく、水色の「ちきゅうにやさしい くりかえし使える」エコ・バッグを引きずるようにして妻が入ろうとする。けれども、目に前に人がいるのに気づき、ぎょっとした表情をしている。妻も175cmあるが、それでも彼女を軽く見上げている。卵焼きの上手な石のおばあちゃんに、子供の頃から、身長が高く、視力のいい人と結婚しなさいと俺は諭されてきたが、どうやら眼の点は従わなかったらしい。確か、彼女はコンタクト・レンズを使用している。  妻は『ミス・マープル〜書斎の死体〜』でのエマ・ウィリアムズに似ている。確かに、この女性とは結婚していてもおかしくなかったという覚えはある。初めて会ったとき、お互いに特別な人ただと感じたのは間違いない。大きいけど、細長く、少々乾いたあの手は、しかし、握り締めると力強く、道を渡るときなんかは、ぐいぐいと引っ張る感じがしたのを思い出す。ブロンドの髪を肩くらいまでのボブにし、服装は…流行と言うよりも、オーソドックスだった気がする。そう、2007年12月18日にテレビ朝日で放映された『世界の車窓から 20周年記念スペシャル』に出演していた安田成美のファッションのような感じだったと思う。妻は絶対にパリス・ヒルトンみたいな格好はしない。つまり、アップル・パイにカスタード・クリームじゃなきゃダメよという信念を持ち、アイスクリームをのせることを軽蔑するような女性のファッションを想像すればいい。  「あ、お帰り。早かったねえ」。  「ドシタノ?」  「あ、シーツを洗濯してる。汚れてたから」。  「ソジャナクテ、コノ人ハ?」  妻は長母音が苦手だ。例えば、「20%」なら、「ニジュッパーセント」ではなく、「ニッジュパセント」と発音する感じ。  「ああ、この女性はね、大手不動産会社の人でね。ええと、どこでしたっけ?住友?それとも三菱地所?まあいいや。ほら、隣のドラッグ・ストアが閉店したでしょ?それで、今度とり壊すことになったんで、ちょっと騒音が出ますが、ご理解の程をよろしくお願いしますよーって説明にこられたんだね、あー、僕の言っていること、わかる?うん。ね?」  「フーン」。  妻は目を長音を表わす文字ように細めている。  「あ、わかりました。どうもわざわざありがとうございました。これ。あなたのバッグですね?どうぞお忘れなく。どうもすみません」。  彼女は、ドアを右手で押さえている妻に会釈し、マンションの廊下に出ると、今度はもう少し深く頭を下げ、帰って行く。彼女を見届けた妻は、静かに玄関に入る。  ドアがゆっくりと閉まると、妻の口角が徐々に上がり、まるで砥石で研いだように光っている白い歯が現われてくる。夢はそこで終わり。  グルメやセックスの話題があまりないが、これは上品ぶっているのではなく、難しくって書きづらいのである。学生の答案でも、数学の問題が解けないので、作文が書いてあることがよくあるが、それがグルメやセックスの話題だと、たいていがっかりする。だれでも書けそうで、うまく書けないものだ。  思うに彼らは、小学校以来、自己の関心を表出するのが作文と教えられてきたのだろう。吉本高明じゃあるまいし、そんなに自己にこだわられたら迷惑だ。それよりは、読み手がたのしめることが大事。若者の関心ときたら、たいてい食い気と色気なものだから、それを書きたがるのだけれど、とても読めたものではない。  一番書きたかったことは、ビジンとかブスとか言いすぎる問題だ。これはたいてい、二人の間の関係というより、同性へ向けて自分のパートナーを誇示しているだけで、二人だけの問題であるセックスにとって、どうでもよいことではないか。セックスのあとの時間に、相手が美しく見えることがすべてであって、パートナーが自分の同性にどう見えるかなんて、副次的なことだ、その点で、ポルノ小説の場合、セックスだけに限定されているといるところに、ぼくは好意を持っている。  人間はどうせ、「親」とか「教師」とかの役割を用いて生きていくのも仕方ない。しかしながら、その仮面が自然としての人間を抑圧してしまう。セックスとか、あるいは排泄行為もそうだが、それらの人間としての自然を隠すことが、文化的進歩なのだろうか。そして、その仮面と自然との距離が、ワイセツになるのだと思う。  そこで、自分ではうまく書けないのだが、セックスの童話があってよいと思うのだ。これは「おとなの童話」ではない。「こども図書館」にポルノ童話があったらというのが、ぼくの理想なのだ。だれか挑戦してみる文学者はいないか。 (森毅『セックスの童話』)  おそらく食事にも同じことが言える。その「あとの時間に、相手が美しく見えることがすべてである」。  ヘンリー・ミラーの性生描は、拒絶に対する征服・支配とほとんど同じで、なるほど「投げやり」に書いているという印象さえある。  ローラは俺の最初のピアノ教師だった。美人とはいえなかったが、俺の心をそそったのは彼女が毛深いことだった。彼女は、すばらしく美しい長い髪の毛を、蒙古人風の頭に、 半分は上向きに、半分は下向きにたばねていた。襟もとの毛は、くるくるとカールしてあった。彼女がくるころまでに私は手なぐさみのためにややぐったりしていた。だが、彼女が横の椅子に腰をおろすと、すぐまた俺は昂奮におそわれた。彼女が腋の下にたっぷりとつけたつんと鼻をつく香水のためである。夏には袖なしを着ているので、密生した腋毛がのぞいて見えた。全身毛だらけで臍のなかまで毛が生えている彼女を私は想像した。俺は、ある日とうとう入浴中の彼女をのぞきみする機会をつかんだ。それはみごとなものだった。草むらのように深く、毛編みの敷物のように豊かなのだ。  つぎにローラが家へきたとき、俺は前ボタンを全部あけ放しにしておいた。(真赤になっているローラが左手でそこを指さして顔をそむけるふりをすると)俺は、その手をつかんでひきずりよせた。俺は、一物のよろこびを彼女に示しながら、彼女の毛編みの敷物をさぐろうと、手をのばした。すると、いきなり私は横面を思いきり殴られた。つづいてまた一発。やがて彼女は私の耳を引っぱって、ぐいぐいと部屋の隅へつれて行き、俺の顔を壁に向けて言った。 「さあ、前ボタンをはめなさい。このいたずら坊主!」  ある晩俺は鉄道線路のそばの草むらのなかに寝ころんでいた。とつぜん俺は、こちらへやってくる女の姿をみとめた。「ローラ!」と俺は呼んだ。彼女は、「まあ、こんなところで、なにをしているの?」とびっくりしながら、堤防の上に私とならんで腰をおろした。俺は、ただ黙って彼女の上にのしかかった。「ここじゃ、いやよ。おねがい」と彼女は言ったが、俺はとりあわなかった。それは彼女にとっても最初の経験だったらしい。たぶん彼女は俺以上にそれを欲していたようである。しかし、火の粉が体に散ったとたんに彼女は体を離したがった。彼女は立ちあがり、服の土をはらい、襟もとの髪を直した。「さあ、早くうちへ帰んなさい」と彼女は言った。「帰らないよ」と俺は言い、彼女の腕をとって歩きだした。俺たちは、かなり長いあいだ、おし黙ったまま歩きつづけた。  俺は本能的に池のほうへ足を運んだ。ローラの手をとって低く枝を垂れた木々の下をくぐり抜けようとしたとき、不意に彼女は俺の手を握ったまま、ずずっと足をすべらせた。俺を引き寄せて、しっかりと胸のなかに抱きしめた。手をさりげなく忍びこませ、すばらしい技巧で愛撫してくれた。やがて俺の手をとって彼女のほうへみちびいた。そして、ゆっくりと仰向けになった。俺はけんめいに接吻しつづけた。ローラは、両手で俺にしがみついてきて、何度となくよろこびに達した。 (『性の世界』)  1930年、38歳のヘンリー・ミラーは二人目の妻ジェーンの支援で単身フランスに棲み、年下のスコット・フィッツジェラルドやドス・パソス、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェーが再訪したパリでの華々しい活躍を伝える英字新聞にコラムの代筆をしている。38歳と言やあ、もういい年齢だ。その後、1934年6月、41歳のときに発表したのがこの『北回帰線』だ。このデビュー作は一部の賞賛と大部分の批難、嘲り、罵倒によって迎えられている。41歳!今の俺と同じ歳だ。でも、俺は、ゲーム『ストリートファイターシリーズ』に登場するジミー・ブランカと同じ日に生まれたらしいが、ヘンリー・ミラーともジミー・ブランカともずいぶんと差がある。  ヘンリー・ミラーは、『北回帰線』において、自分の生き方について次のように述べている。  俺は精神面でのみ死んでいる。肉体的には生きている。道徳的には自由だ。俺が見捨てた世界は檻に入れた動物の見世物に過ぎなかった。今新世界の夜明けが近づいている。それは、鋭い鉤爪を持つやせた精神が徘徊しているジャングルだ。もし俺がハイエナだとすれば、やせて飢えたハイエナだ。俺は太るために前進する。  ヘンリー・ミラーは、むしろ、「精神面」では健康的である。直線的で、屈折や葛藤、不安などはまったく見られない。しかし、ヘンリー・ミラーの姿は「ジャングル」の「ハイエナ」ではない。横丁の野良猫のライフ・スタイルだ。家猫でも、野猫でもない。食い物にありつつくために、如才ないヘンリー・ミラーは知り合いのところを回る。うちの軒下を朝10時頃にあの黒猫が縄張りを確認するために通過するように、ヘンリー・ミラーは定期的に友人たちの家を訪問する。友人たちが食事を提供するのは、いつも入り浸られてはかなわんし、決まったときに、訪れてくれる方がありがたい。まあ、喜捨や寄付だと思えばいい。ニャンコ先生が「とってんぱーの にゃん ぱらりっ」とキャット空中三回転を風大左衛門に教えているのと同じではないか!  それが可能だったのは、その座談のうまさによる。ヘンリー・ミラーは座談の名手だ。友人たちに座談の対価として飯を食わせてもらう。座談をするには、話題が豊富で、なおかつ客層によってその嗜好を読んで変えられる能力が不可欠だ。結婚式での来賓のスピーチみたいのじゃあお話にならない。  座談は「ファティック・コミュニケーション(Phatic
  Communication)」の一種である。「交語」とも訳されるファティックは、特にメッセージ性がないけれども、発することにより、送信者と受信者の間につながりとつくり、強める言語の機能である。自己を表現するためでも、情報を伝達するためのものでもない。「あいさつは、その代表的なものであって、人間同士の結びつきを作り、社会を作り出す。会っておきながらあいさつをしないと、その人との関係が切れていく。あいさつをするからといって、それだけで関係が深まるわけではない。『おはよう』などのあいさつは、一度できた社会的な関係を維持するという働きをする」(金田一秀穂『新しい日本語の予習法』)。他にも、友人や恋人、家族とのおしゃべりもファティックに含まれる。それらは伝えるべきメッセージ性に乏しく、生産的・建設的内容でもない。それは発話すること自体に意味がある。ファティックは関係性をつくり、強め、グルーミングの機能を持っている。  「グルーミング(Grooming)」とは、集団生活する動物がストレス解消のために行う好意である。代表的なのが毛づくろいである。各種の研究によれば、社会集団の大きさに比例して、グルーミングに費やされる時間も増加する。サルは不特定多数ではなく、家族であるとか、親しいものであるとかいつも決まったパートナーとの間で毛づくろいをし合う。このグルーミング仲間では、餌を見つけたり、敵が近づいてきたりした際に、合図を出し合っている。利他的行為はグルーミングが成立している間柄でなされるのであり、グルーミングは友好的な関係を形成・維持するための行為である。  GWに石垣島へ旅行し、夜空を眺めている恋人たちが次のような会話を交わしているとしよう。  「星がきれいね?」  「そうだね」  「あの赤い星は何かな?」  「何だろう?」  この会話には、これといった内容がない。お互いの関係を確かめるために交わされているのであって、行為自体に意義がある。この会話に潜在している意味を顕在化させれば、次のようになるだろう。 「あなたが好きよ」 「ぼくもさ」 「あなたが好きよ」 「ぼくもさ」  しかし、こういった他愛のない会話を「あああ、勝手にやってくれや」と軽視すべきではない。この女性にしたところで、「あ、あの赤い星はアンタレス。詳しいデータはちょっと思い出せないけど、視等級は1.09で、変光星型 LC型、地球からは約600光年で、表面温度は、確か、3600Kだったかな、さそり座を構成していて、一般にはさそり座のα星と呼ばれているんだ。さそり座は代表的な夏の星座でね…」などという答えを期待しているわけではない。こうしたファティック・コミュニケーションにはグルーミング効果があり、ファティックこそが言葉の起源という学説もあるほどだ。「ことばはコミュニケーションの道具である、とよく言う。しかし、ことばは情報伝達の道具というだけではすまされない。ことばの起源を見た人はどこにもいないのだから、あくまでも仮説にすぎないけれど、ことばがお互いに仲良くする目的のために生まれたのだという考え方は、ちょっと魅力的だと思う」(『新しい日本語の予習法』)。  付け加えると、人間以外の動物が第三項の認識をめぐって相互作用をして、共通認知することは確認されていないそうだ。  例えば、小岩井農場でなされた20代後半の母と2歳の娘の次のような会話はチンパンジーには認められていない。  「お馬さんだがいるねえ」。  「お馬さん、お馬さん」。  「かわいいねえ」。  「かわいい、かわいい」。  こういうのが言語を通じた人間のグルーミングの一例である。  ヘンリー・ミラーはすぐに友達をつくれる。それは、座談以前に、話しかけるのが上手だからだろう。最近は聞かれなくなったけれども、「理論か実践か」とか「書斎か街頭か」という議論が伝統的にあるが、がお等にでて実践に入るには、まず、誰かと出会って、話しかけないと何も始まらない。政治にしろ、ボランティアにしろ、文化交流にしろ、何らかの活動に参加するには未知の人に話しかける技術がないと話にならない。ところが、ヘンリー・ミラーと違って、日本人は下手だ。何か公益的な活動に参加したいと思いながらも、できずにいる人が多いのはこういう理由も大きいだろう。何しろ、日本では一言も一日中話さずこと足りてしまうことさえある。弟によると、アメリカでエレベーターで誰かと乗り合わせたら、話しかけないといけないらしい。でないと、ホールド・アップと勘違いされてしまうんだそうだ。また、妹とパキスタン系英国人が一緒にアンマンの公園のベンチに座って朝食を食べていると、隣のベンチにヨルダン人の男が腰掛け、無言で食べ始めたのを見て、こう言ったそうだ。「話しかけてこないわ。相当暗いわね」。一人で何かを黙々と成し遂げることが実践的なのではない。実践とは未知の人とコミュニケーションすることであり、ヘンリー・ミラーは、その意味で、非常に実践的である。  俺も生き延びていくために、座談をよくする。でも、いくらなんだって、いつもいつも、高校のクラスでの教師の雑談程度というわけにはいかない。今朝だって、NHK・BS1の『おはよう世界』を見ながら、通訳の話題となり、どんなに流暢に外国語が話せるとしても、経済人は英語を使うのが当然であるけれど、政界の人は通訳を間に入れるべきだと妹に説明している。  「フェアトレードグアテマラSHB」のコーヒーを飲んでいたときに、たまたま、アイスクリームに関するアメリカ制作の番組のことを妹が思い出し、アイスクリームが「ホット・ケーキのように売れた」と吹き替えたシーンがあったが、あれは「飛ぶように売れた」の慣用句を直訳してしまったんだろうと言ったのがきっかけだ。  通訳は、厳密には、非ネイティヴ言語からネイティヴ言語への翻訳だけを指す。俺は6段ある書棚の下から数えて3段目から文庫本を引っ張り出す。鳥飼玖美子は、『歴史をかえた誤訳』において、英語に自信のある政治家に限って、英語の失言を起こすと記している。今年亡くなった宮澤喜一元首相が経済問題で失策を続けたのも、彼が通訳を使いたがらなかったことに一因があると見られている。追悼する際に、通訳抜きで話すことを讃えるコメントがメディアでよく見らたが、それはとんでもない誤解だ。宮澤元議員が蔵相や首相でいたときに、必ず円が急騰している。エドウィン・ライシャワー元駐日大使はあれだけ日本語に通じていても、必ず通訳をつけている。それは通訳がたんに言葉を訳すのではなく、そこにこめられているメッセージも配慮するからだ。1993年のビル・クリントン大統領との首脳会談で、その内容を読む限り、アメリカは円高容認のメッセージを送っている。けれども、宮澤首相はそれに気づいていない。バブルがはじけたあの時期に急激に円高が進むことは、日本経済にとって、好ましくはない。宮澤首相が自身の英語力に過信したために、日本経済はさらに沈むことになってしまったのではないかと1993年4月25日付『朝日新聞』の「声」欄に投書もあったほどだ。  そもそも、「外国語副作用」という現象もある。外国語を使うと、母語の場合と比べて、言語処理に能力が割かれるため、思考が下がってしまう。通訳を使えば、その人が訳している間の時間がとれるので、処理に思考を妨害されずにすむ。極端に言えば、通訳を入れること自体に意義があるのであって、その通訳が自分よりも外国語の能力が劣っていてもかまわない。  ついでに言うと、高度で抽象的な計算においては、金田一秀穂によると、バイリンガルはありえない。最も得意な言語で作業にあたる。  だいたいこんなところだ。  妹だけじゃない。岡ん家に呼ばれるなどいろいろな人から飯や酒、服、本、映画の世話になっている。話題は、だから、多岐に亘っていないと、毎回毎回飯にありつけられるというもんじゃない。魚ヘンに喜ぶと書いて、「鱚(キス)」と読むとか、日本語では「無党派層」と呼ぶが、英語においてそれは”Independence Voter”と言い表わすんだけど、まるで印象が違うだろとか、『チャーリーとチョコレート工場』のジョニー・デップは楠田枝里子に似ているとか、インフルエンザの予防接種を天沼診療所で受けてきたが、あそこは2650円と安くていい、注射するならそこにしろとか、弟がアトランタに出張したとき、夜10時に仕事先のアメリカ人からチーズ・バーガーを食わないかと誘われたんで、断ると、「お前、どこか悪いのか?」と心配されたとか、海外の外国人へのお土産には羊羹、国内にいる外国人には干し柿が喜ばれるとか、美輪明宏が東京駅の弁当売り場でチキン・バスケットが品切れだと知って悲しそうな表情をしていたとか、日本のポピュラー音楽では「あなた」から始まる歌が多く、「わたし」が頭にくるのは少ないのは、「ア」は「ワ」と比べて口の開きが小さくてすむからだとか、マンガのヒーローは、世界中を見ても、実質的に、孤児が多いとか、マフィアのゴッドファーザーだったジョン・ゴッティの未亡人ヴィクトリアが「本当の悪党はジョージ・W・ブッシュとディック・チェイニーじゃないか、あいつら何人を殺したんだ?ニュースを聞く度に胸糞が悪くなる、うちの旦那よりもあいつらを追求しろよ」メディアに噛みついたとか、文房具屋で80歳くらいのおばあちゃんが「ネズミばっかり!どうしてかしら?あたしゃネズミが嫌いなのよ。ネズミのない年賀状ない?」と尋ねていたとか…  俺は自分のポケットには金をもっていなかったが、他人の金を自由に使うことができた。社の雇用主任だということで信用があったのだ。俺は平気で人に金をくれてやった。洋服でも、下着でも、本でも、余分なものは、ことごとく人にあたえた。どんなに多額な金でも、気前よくあたえた。なぜなら、貧しい悪魔どもにことわるより、よそから借りて渡すほうが気が楽だったからである。俺は貧しい自分の生涯中に、これほど悲惨な人間どもの集団を見たことがなかった。しかし、その底には目に見えないほど小さなほのおが燃えていた。そして、その火をかきたてる勇気さえあれば、炎々と燃えあがらせることもできるのである。俺は、思いやりをかけすぎるな、感傷的になりすぎるな、と絶えず(副社長に)戒められた。くそくらえだ! 俺は、あくまで寛大に、思いやり深く、すなおに、慈悲と寛容とまごころをつくそう、と俺は心ひそかに反駁した。そして、当初のうちは、一人一人の話に、終始熱心に耳をかたむけた。もしその男に職をあたえることができず、しかも俺が金を持っていない場合には、タバコをやるか勇気をつけてやるかした。とにかく、あたえることに専心した! 俺は、それと交換に、大きな感謝と、好意と、かずかずの招待と、感傷的ながら心のこもった、ささやかな贈りものを受けたのである。 (『南回帰線』)  ヘンリー・ミラーのファティックには、ユーモアが溢れている。田澤晴海は、『ヘンリー・ミラー研究』において、「作品の構造を解く鍵」として”cancer and delirium”を挙げ、この二つの概念の往復運動が作品を展開させていると指摘している。従来、”cancer”ばかりがとりあげられてきたけれども、”delirium”に「道化の思想」を見出し、これがあるからこそ、俺は金がない。手に職もない。希望もない。俺はこの世でいちばん幸福な人間だ」が現状打破として表われていると分析している。硬直して何も生み出せなくなった現実ないし人間の状況を打開するには、ユーモアが欠かせない。最良の笑いは、おそらく、道化による批判精神であろう。道化は王に依存しながら、最も彼に直言できる存在だ。自分を高みに置いて他人を冷笑するなど「何様のつもりだ?」と反発されるだけで、現状の打開どころか、もっと深みにはまってしまう。精神的低迷状態から解放がされるには、道化の精神を獲得するほかない。  ヘンリー・ミラーは、『三島由紀夫論』の中で、笑いの重要性について次のように述べている。  彼のくそ真面目な性格が、三島の邪魔になっていた。私はこのくそ真面目というのが日本人の特長であると言いたい。禅師だけが、本当の意味のユーモアを持っていると思う。それは西洋人にもまた無縁であるユーモアだということも付け加えておきたい。もし禅のユーモアをわれわれが理解し、本当に評価するならばわれわれの世界は崩壊してしまうだろう。重要なのは、このユーモアの欠如というものが融通性のなさにつながるということなのである。  ヘンリー・ミラーはこの道化の思想でもって友人たちの間を回り、都市を徘徊する。ジョージ・オーウェルは、『鯨の腹のなかで』において、『北回帰線』について、現代文明批判を盛りこんだ都市放浪記のスタイルをとった「一人の幸福な男をめぐる本」と指摘している。  街は、俺の避難所だ。そこに逃避せざるをえなくなるまでは誰にも街の魅力はわからない。微風のそよぐごとに、ここかしこに吹き流れる一本の藁となるまでは。 (『北回帰線』)  都市には、しばしばアイデンティティを付与され、確認するために人が集まってくる。新宿、渋谷、六本木、大久保、秋葉原、ネット・カフェなど挙げればきりがない。都市放浪記は、そのため、アイデンティティの物語となりやすい。しかし、ヘンリー・ミラーは違う。ヘンリー・ミラーほど都市を書くことに向いた作家を捜すのも難しい。寄生虫のような彼のライフ・スタイル自身が都市そのものを体現している。  都市は借用の空間だ。所有の空間じゃない。中世の修道士たちの変遷がそれをよく物語っている。11、12世紀のシトー会やプレモントレ会などの修道士は、江川温の『ヨーロッパの歴史』によると、「祈祷典礼の専門家たち」であり、その役割は「なによりもまず祈りを通じて神の恩寵を地上の教会組織に導入、蓄積すること、また各修道院と深い関係にある個々人の魂の救済のために祈祷典礼を行うこと」であって、修道院の存立基盤は農村における大土地所有制だったが、13世紀に入ると、托鉢修道精が誕生し、事情が変わる。フランチェスコ会やドミニコ会、カルメル会、聖アウグスティヌス会などの修道士たちは「土地財産を持たず、もっぱら喜捨や寄付によって生活し、祈祷よりも説教を主要な活動」としている。彼らの活動の主な場は都市である。修道士も農村に住む限り、土地や財産を所有していなくては生活していけないが、都市では、それらを持っていなくとも、生計を立てられる。その代わりに、彼らは言葉を喜捨や寄付と交換する。農村の修道士は祈祷の作法さえ知っていれば、無学でも無教養でもかまわなかったが、都市の托鉢修道士キリスト教の知識に通じ、なおかつ話題が豊富で、人を魅惑する話術にも長けていなくてはならない。ヘンリー・ミラーは、その意味で、現代の托鉢修道士である。  もっとも、今、都市放浪記を創作しようとする作家がいるのなら、現実の都市だけじゃなく、『マトリックス』よろしく、ゲームやウェブ、中でも「セカンドライフ」を書くというのも手だろう。ワグナー・ジェイムス・アウはセカンドライフをウォッチし、そえを自身のブログで報告している。人生において最も重要なのはと問われると、「愛」と答えるロマンティストもいるだろうし、「カネ」と嘯くリアリストもいるだろう。しかし、俺に言わせれば、どっちも違う。本当に必要としているのは人と人とののつながり、すなわちコミュニケーションだ。「セカンドライフ」はそれをよく物語っている。  江戸の庶民も家じゃなく、町に住んでいる。住み家は借家、食事は外食、風呂は銭湯、遊び歌舞伎小屋か遊郭。都市は、近代に入ると、それがより顕在化するが、物と言うよりも、サービスの社会である。しかし、東京は、江戸の郊外も吸収したこともあって、高橋淳子の『東京「農」23区』に目を通すと、意外と農地が多いことに気がつかされる。1984年に発表された吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』に「東京へ出だなら、銭コァ貯めで、東京でベコ飼うだ」とあるが、1985年まで東京で牧場が営業されている。昭和40年代までは23区内にも牧場がいくつかあり、23区最後であると同時に日本最古の牧場である四谷軒牧場が当時まだ残っている。しかし、あの歌詞は、俺の東京での生活とそれほど遠くない。テレビはチャンネルを変えると、画面が真っ黒になるので、その度に、スイッチを入れ直さなきゃなんない。どうも俺は電化製品と相性が悪い。そのテレビを除いても、過去2年間だけでも故障したのは、電子レンジ、冷蔵庫、給湯器、ビデオ・デッキ、プリンター、CATVチューナー、CDプレーヤー(2台)、固定電話(2台)、モジュラー・ジャック等々。最近、携帯電話も調子が悪い。体から何か電磁気力でも出てんじゃねえかってよく言われるが、確かに静電気がたまりやすいのは事実だけれども、俺はそんな似非科学を信じるような男じゃない。ちゃんと無事なのもある。炊飯器、洗濯機、エアコン、DVD兼用のLDプレーヤー。そう、吉さんよ、俺にはレーザーディスクがある!パイオニアのDVL-919で、『俺たちは天使だ!』や『あぶない刑事』を今でも時々見ている。カメラのサイズとアングルが基本通りで、今時の刑事物と違い、カット・バックが抑えられているのがいい。おまけに、数多くの名作へのオマージュもある。『天国と地獄』、『グロリア』、『フレンチ・コネクション』、『ダーティー・ハリー』、『スカーフェイス』等々。別に、テレサ野田を懐かしがっているだけではない。  2007年11月22日、『ミシュラン・ガイド』東京版が発売され、それに先立つ同月19日、その概要が公表されたが、東京がパリの2倍の星を獲得したことに欧米のメディアが驚きをもって伝えている。「東京は美食の都の地位からパリを引きずり降ろした」(AP通信)や「パリもニューヨークもローマも忘れてしまえ。グルメの本場は東京なのだ」(ロイター通信)など「マイアミの奇跡」を思い起こさせるような見出しが躍っている。  『ミシュラン』の評価の妥当性はさておき、徳川家が江戸に幕府を開いた頃にはこんな出来事が起こるとは夢にも思わなかったに違いない。当時は、浅草に奈良茶飯屋がある程度で、料理文化はお粗末極まりなかったからだ。  料理文化は、食文化の中でも、美食を問題とするもの。これは料理屋と料理本によって具体化されると言っていい。  江戸時代初期の文化の中心は上方、つまり京都や大阪。都市は人や物、金、情報の出入りする場であり、流通量の多さがその都市の活発さの指標となる。その点で、当時の江戸は上方とは比較にならない。江戸産のものは「下らないもの」や「地のもの」と呼ばれている。今日、ローカルな地域で生産されている酒を「地酒」と言うことがあるが、元々は江戸産の酒という意味。  当時の酒は、現在と比べて、全般的に糖度が高く、甘ったるい。そんな中でも、上方の酒は、比較的辛口で、すっきりしていたため、地酒よりも尊ばれたのも当然。  江戸以前、米の総生産量の3分の1以上が酒類の製造に使われている。食べるより、飲む方がいいという気持ちはわからないでもない。戦乱の世が終わったため、水田開発が急速に進み、米の生産量が増し、酒の製造も大規模化されていく。それに伴い、関西の地元で消費されるだけでなく、関東にも売られるようになっている。酒だけでなく、酢や醤油が家内制ながらも量産されるようになったのは江戸時代に入ってからのこと。  しかし、時が経つにつれ、江戸でも料理文化が発達していく。そのうちに、「料理人を喰いに行く」などと口にする「通」を気どる食道楽者も現われ、グルメのガイド・ブックや格づけ本も盛んに出版される。路上の煮売屋が近世中期に入ってから闊達し、「料理屋」となる。各料理屋も競って腕の立つ料理人を集め、さまざまな趣向を凝らし、名店との評判を得ようと躍起になっている。19世紀初頭の文化・文政期(1804〜30)に江戸の料理文化は最高潮に達する。  その代表が浅草の「料理屋八八百膳」。数人でお新香が添えられた茶漬け一杯を頼んだら、1両2分請求されたという記録がある。現在の貨幣価値に換算すると、数万円。何しろ、富士山麓の清水で研いだ米、みりんで洗った大根、油紙の覆いを被せ、その中を火鉢で温めて栽培したナスを使っている。野菜をハウス栽培したり、魚や鳥も養殖したりして、旬の季節以外に出すというのは八尾膳の売り物。また、八百膳は『料理通』という本を刊行していたが、これは江戸土産として珍重されている。  その頃の様子は、サントリー美術館に所蔵されている『江戸高名会亭尽 八百膳の巻』で垣間見ることができる。そこでは料理だけでなく、内装や庭、景色も呼び物の一つだったことがうかがい知れる。  けれども、江戸幕府と料理文化は、根本的には相容れない。料理文化は消費文化の隆盛と平行している以上、質素倹約とは相反する。「改革」が行われる度に、料理文化が衰え、終わると盛り返すのを繰り返していたが、1841年に始まった天保の改革以後は、勢いを取り戻せず、衰退していくた。  料理文化は商業と相性がよく、本質的に都市文化。もちろん、都市で飽食の状態にありながらも、地方は飢餓に苦しんでいるという格差を政治家とすれば見過ごすわけにはいかない。けれども、料理をあまりに「物」として考えてばかりいては、味気ない。  料理文化は食を唯物的にではなく、情報として捉えてることで生まれる。情報だから、手に入りにくいもの程ありがたがられるし、信頼性も重要になる。ガセネタをつかまされたタレコミ屋を相手にする刑事はいない。美食は審美的に味わうのではなく、情報を味わえること。究極の料理に到達することを目指すのが美食家の目標ではない。  腹をすかしている人には食はエネルギーの源である一方、美食家にはエントロピーと譬えることもできる。エントロピーが最初に用いられた熱力学では、温度が一定の場合、エネルギーとエントロピーを同じとして差し支えない。しかし、現代は絶え間ない変化の世の中、つまり温度が一定していない社会。グルメ情報も、当然、コロコロと変わる。もし『ミシュラン』の星を権威=エネルギーとして捉えるとしたら、客も店も時代離れしているだけ。変化を味わうのが、むしろ、料理文化にほかならない。  ここのところ、日本は未来ではなく、過去志向だ。映画もそうだが、オタク文化はレトロである。しかし、それには懐かしさはない。思いつきや思いこみが気になることも少なくない。ビート・ジェネレーションが禅をつまみ食いしたように、しばしば、それが持っている歴史的・社会的な背景や意味を──意図的にしろ、無意図的にしろ──無視し、恣意的もしくはアイロニカルに再構成している。流行として飽きられてしまう可能性が高い。概して、自己完結性が強く、それが秘めている意味を読みとるリテラシーへの意志を感じない。懐かしさはその対象が自分自身の中で眠っていた記憶を呼び起こすときに覚えるプラトン流の想起である。本当においしいものの味は覚えていないものだ。食べる前のことや食べた跡のことは記憶にあるのに、食べている間のことは抜け落ちている。だから、また食べたくなる。それを口に入れ、舌で味わった沿いの瞬間に記憶が呼び戻される。想起を楽しむのが美食というもの。視覚や聴覚以上に、嗅覚や味覚、触覚など内部に入ってくるものがきっかけとなりやすい。視覚や聴覚にその機能がないってことじゃない。俺だって、『シバの女王』がラジオから流れてきたりすると、70年代のスキー場にいるかのような錯覚に陥ってしまう。そこはいつも軽く吹雪いている。言うまでもなく、記憶は、認知心理学の各種の研究が告げている通り、偏りがあったり、曖昧であったり、偽りがあったりするものだ。従って、重要なのは反芻することである。  俺には、昭和30年代を描いた自己完結した映画よりも、DVD全8巻の『『「朝日ニュース映画で見る」 昭和』の方がはるかに得るものがある。昭和30年代の東京はちょうど今の北京のように大気汚染がひどい。また、急速な人口増加のために、住宅難と水不足が深刻な問題となっている。特に、水の件は、たんに人口のみならず、以降も電気洗濯機や内風呂の普及による一人当たりの水の使用量がうなぎのぼりとなることから、昭和40年代に入っても続いている。そのほぼ同じ時期、人手が流出した岩手の漁村の小学校では、昼飯時になると、教室から出て校庭のブランコに座っている子供たちの姿が忘れられない。弁当につめるものがねえんだよ。当時はまだ学校給食も満足にない。また、恣意的に組み合わせて自己意識の優位さを味わうよりも、歴史的・社会的背景を知り、その意味を読みとる方が、自分の固定観念が壊され、つくり変えられていくので、快感だ。  俺の目には暗闇のなかでテーブルの前に坐っている自分の姿がうかぶ。いきなり象皮病にとりつかれたかのように、俺の両手両足は、ぐんぐん太くなっていく。体が重くなればなるほど、部屋の雰囲気は軽くなってゆく。しだいに俺は拡大していって、ついには、ひとつの堅いゼリーの塊で部屋を満たしてしまう。俺のごく小さな一部分だけが、いまは生きている。そして、生気のない屍が拡大するにつれて、この生命の閃光は、しだいしだいに鋭くなり、俺の内部で宝石の冷たい炎のように輝く。  ある晩、アマリロー・ダンスホールから出ようと回転ドアの真鍮のバーに手をかけたとき、それまでの私のいっさいが、いまにも崩れ去ろうとしたのである。俺が生まれた時そのものが、強い流れにさらわれて消え去ってしまったのだ。俺は、成長過程が停止されたままになっている無時間のベクトルのなかに追いかえされてしまったのだ。そこには不安はなく、あるのはただ使命感だけであった。突入の際に骸骨は破裂し、無力な不変のエゴだけが残った。 (『性の世界』)  西鉄ライオンズ時代、豊田泰光は死刑囚を慰問する機会があり、その場では「うろたえた」がこういう経験はしておいた方がいいと回想している。俺もそう思う。でも、それを気の利いた言い回しで表現する必要などない。底の浅さが知れるだけだ。ただ、「うろたえた」ことを、自分が突き放されたことを反芻する。それでいい。  もし実際に書かれるとしたら、都市放浪記による現代文明批判は、今日と20世紀初頭とでは異なっているだろう。コンピューター・ネットワークによる監視・支配、ライフラインへの依存、インフラの脆弱さ、いわゆる裏社会の暗躍などに焦点が当てられると予測されるけれども、それらはいずれも世界の多層性を描いているのであって、都市というものの本質ではない。  先に言及した都市の特徴を突きつめると、都市は寄生の社会だとも言える。東京には、「世界でただひとつの寄生虫の博物館」の目黒寄生虫館がある。都市に寄生虫の博物館というのは素晴らしいコンセプトだ。寄生虫館が配布しているパンフレットには、次のように記されている。 財団法人目黒寄生虫館は、公益法人として、一般の個人・法人のみなさまからのご寄付が貴重な財源となっております。ぜひ、ご協力くださいますようお願いします。なお、当財団への寄付は「特定公益増進法人」への寄付として寄付金控除が認められております。(参照:所得税法第78条第1項および第2項、法人税法第37条第3項第2号)  寄生虫を展示する博物館が独立採算するとしたら言動不一致だ。あるべき姿は世の中に寄生することだ。堂々と寄付をもらえ!俺も鈴木に「ちょーだい!」と頼んで、100円ほど寄付金箱に入れている。  目黒寄生虫館に行ったのは、松岡利勝農林水産大臣が首を吊った次の日だ。テレビ東京でリチャード・バートンとクリント・イーストウッドが主演の『荒鷲の要塞』を見ていると、自殺を図った松岡農水大臣が死亡したとテロップが入ったのを覚えている。寄生虫館の2階にサナダムシの写真とその長さを体感できる8.8mの紐が壁に展示してある。階段の踊り場辺りまで伸ばせるので、せっかくだから、前日のこともあるし、階段でその白い紐を首に巻いて写真を撮ろうとしたら、鈴木にとめられる。見学に来ていた中学生か高校生数人を右肩越しに親指で軽く指しながら、横浜のアクセントで冷ややかにこう言う。「大人(で)しょ?」  横浜はいい。ヘンリー・ミラーがブルックリンを思い起こすためにパリを愛したように、ベイルートが好きなのは、横浜に似ているからだ。もし俺が横浜で生まれ育っていたなら、そこで一生を終えたいと思っただろう。地方のラーメンは東京にも店を出したがるが、横浜は違う。サンマ―メンは横浜でしか食べれない。探せば他でもメニューに入れているかもしれないが、少なくとも、俺は見たことがない。  鈴木は、黒い癖っ毛とのショートという点を別にすれば、アオザイが似合いそう感じだ。あのときの格好は…まったく覚えていない。スカート…いや、パンツ・ルック…わからん。まあ、どうせZARAあたりでも着てたんだろう。でも、その後に、恵比寿ガーデンプレイスでエビス・ザ・ブラックの中ジョッキをおごってもらったことは忘れちゃいない。  同じ階に、ショップがあり、魅力的な各種寄生虫グッズが売られている。サナダムシ柄のランチバッグがあるところなど泣かせるではないか!これを見たら、ジョン・ウォーターズは狂喜乱舞するに違いない。ミュージカル『ヘアスプレー』において、主役のトレイシー・ターンブラッドにゴキブリ柄のシャツを着せているが、さっそく、立体サナダムシ柄のTシャツにして撮り直すだろう。  俺は、俺自身の体や、自分の欲望を知る契機をつかむために、失明することを望んだ。見たこと聞いたことをふりかえってみるために――そして、それを忘れ去るために、何万年もひとりでいたかった。自然の謎の生産力を、子宮の深い井戸を、静寂か、さもなければ暗冥の死の潮騒を、ひたすら求めた。じつに不可解であると同時に、きわめて能弁でもある暗闇になりたいと思った。もはや、話すことも、聞くことも、考えることも、いっさいしたくなかった。草木や虫や小川の流れのように、ただ地上のものとしての人間でありたかった。 (『南回帰線』)  寄生は非常に複雑で興味深いが、それを含めた生物間の相互作用、すなわち共生をめぐる諸概念は次のようにまとめられる。 
  寄生者と宿主の関係をめぐっても、寄生は以下の通りさまざまに分類できる。 1相互関係の種類による分類  寄生…寄生者が利益を得て,宿主が損失を被る  偏利…宿主がほとんど影響を受けない  中立…寄生者にも宿主にも利益・損失共にない  相利…寄生者も宿主も相互に利益を受ける 2寄生者の状態による分類  絶対寄生…寄生状態が必須  条件寄生…自由状態であっても生きていけるため、寄生状態が任意 3寄生部位による分類  外部寄生…宿主の体の外部に寄生する  内部寄生…宿主の体の内部に寄生する   消化管内寄生…消化管内部   体腔内寄生…臓器やリンパ管,血管など   細胞内寄生…細胞内部 4利用する資源の種類による分類  栄養寄生…多度主から栄養を吸収する  捕食寄生…宿主を体内から食い殺す  すみこみ寄生…他の生物がつくった巣などを利用する  労働寄生…他の生物の労働力を搾取する  社会寄生…巣など他の生物のコミュニティごと乗っ取る 4宿主間の伝達様式による分類  水平感染…異なる個体間での感染  垂直感染…親から子へなど世代間の直接感染    これは、実は、共生の分類と重なり合う部分が少なくない。一般的な「共生」はほぼ相利関係を指している。しかし、共進化の問題などもあり、両者の区別はそんなに単純ではない。共生や寄生を利益という観点から捉えるのは一元的思考である。サナダムシが消化管内に寄生しているために、体躯は細いものの、アレルギーが抑制されているとしたら、この場合の利害を決めることは困難である。身体に人格的な比喩を当てはめて一元的に捉えるのではなく、多元的な見方が必要である。それは、農林水産省と経済産業省がWTOの場で利害が必ずしも一致しないのと同じことだ。ロバート・コヘイン=ジョセフ・ナイは、1977年、国際関係において伝統的な一元主義的リアリズムに対し、「複合的相互依存(Complex Interdependence)」を提唱したが、生物間の相互作用にもこうした認識を導入する必要がある。藤田紘一郎は、『共生の意味論』において、規制と共生を安易に分けるべきではなく、「必須か任意かを含めて『共生』という言葉から利益に関する意味あいをすべてとり除きたい。つまり、『共に棲むこと』の意味で『共生』を使いたい」と言っている。この意見に従えば、寄生も共生にほかならない。  このように、ヘンリー・ミラーの寄生虫のような生き方がまさに都市を体現したものだということは明らかだろう。『北回帰線』はたんなる都市放浪記などではなく、都市そのものを具現化した作品である。いや、それどころか、新たな相互依存論の手引きとなるかもしれない。  『ザ・センチネル』に続いて、『エネミー・ライン2─北朝鮮への潜入─』を見てしまう。顎鬚を手入れした後、風呂を掃除するが、また右足がつる。今日は朝から足がよくつる。四度目だ。その後、東信閣・大漁苑に、予約していたおせち料理の「舞」セットの料金を支払い、西友で食料品を買う。かまぼこと油揚げ、えのきだけ、それに柚子。今晩はほうとうだ。家を出たときにはやんでいた雨が、帰り道では、またポツポツと落ちてくる。  俺が住み始めた頃の荻窪はラーメンの町だったが、今はそう思われてはいないだろう。とは言っても、幸いにも、変貌する都市というお決まりの物語も生まれそうにない。1990年の衆議院議員選挙の際に、オウム真理教奇抜な選挙活動をしていたのも荻窪駅北口の駅前だ。荻窪はオウム真理教の麻原彰晃が立候補した旧東京4区に含まれている。オウムは地下にいたんじゃない。すぐそこで、真昼間に青空と太陽の下、歌い踊っていたのを忘れちゃ行けない。花王バブのCMにさとうコロッケ店が出ていたからって、コロッケの町ってこともない。妹は、荻窪の人たちは立ち食いが嫌いなんじゃないかと言っている。妹はアイスクリームにとチョコレートに目がない。その手の店は必ずチェックしている。荻窪に進出したアイスクリーム店は31やキハチなどことごとく撤退に終わってけど、タウンセブンのニューコーミヤは生き残っている。あそこには販売スペースが接するエスカレーター脇にベンチがあって、そこで、足をばたばたさせながら、昔ながらのソフトクリームをぺろぺろなめている子供をよく見かける。獣医の祖父もソフトクリームが好きでね。デパートなんかに行ったとき、いつも売り場に駆けつけ、ニコニコしながら口のまわりを白くしていたのを覚えている。祖父は裕福な地主の家の生まれで、子供の頃、親に連れられて東京に来たことがあり、そこでアイスクリームの虜になってしまったらしい。言われてみれば、教会通りのやきとり慶屋は、店舗の前に椅子を置いている。  ここ最近で、全国ニュースになったのは東京世田谷一家殺害事件の関連で、犯人の遺留品の一部が荻窪オリンピックで購入されたからだ。この時期になると毎年報道されるが、それは無念なことだ。まだ犯人が捕まってないってことだからだ。オリンピックはとり壊され、今はもうない。  荻窪は空襲を免れたため、昔からの道なりが残っている。ほとんどの道が曲がりくねり、いくつかの道では行き止まりになる。「荻窪」の地名の由来は「荻」の生い茂る「窪地」だったというのが通説らしい。大学1年生のときに、手品の得意なマイクのクラスで住んでいるところの歴史を調べるテーマを出されて、中央図書館で史料にあたった記憶がある。その歴史は古く、光明院によると、708年(和銅元年)に遡れる。中世の荻窪は豊島郡に属し、1477年(文明九年)に豊島氏が太田道潅に滅ぼされると、まず、扇ヶ谷上杉氏、次に北条氏、その後は徳川氏の領地と移り変わっている。江戸時代初期には、荻窪村を京都に近い西側を上荻窪村、東側を下荻窪村に二分割され、下荻窪村は伊賀忍者でお馴染みの隊長服部半蔵の知行地、上荻窪村は伊賀同心8名の知行地となっている。そう、NINJAだ。これで落ち着いたわけではなく、下荻窪村は幕府直轄の天領となったかと思えば、1635年(寛永一二年)に麹町山王日枝神社領とめまぐるしく変わっている。上荻窪村も天領となっている。俺が荻窪生活で大半をすごしているのは。実は、天沼だ。天沼は荻窪と別で、かつては「天沼村」と呼ばれている。駅名で言った方が地元民以外にはわかりやすい。「天沼」の地名の由来は、8世紀に書かれた『続日本紀』の中に「乗潴(あまぬま)」に駅伝制の駅を設置したと奇術があり、そこが現在の阿佐谷と荻窪の間にある天沼ではないかと推測され、古くからの街道だったと考えられている。もっとも、荻窪にしろ、天沼にしろ、街道の頃も中央線開通してからも、長いこと農村地帯で、さして栄えていたというわけではない。「荻窪や野は枯れ果てて牛の声」(内藤鳴雪)。   そんな荻窪でも、政治の中止にいたときがある。 「荻外荘政治」の頃だ。1937年、公爵近衛文麿は今の荻窪2丁目43番(2号)にあった入沢達吉博士邸を別邸として購入し、元老西園寺公望により「荻外荘」と名付けられている。その年の6月、近衛が首相となり、1941年末まで、荻外荘は多数の政治的要人が訪れ、重要な会合が開かれただけでなく、公的といっていい会議まで催されている。歴史に悪名高い「荻窪会談」も、1940年7月19日にここで開催され、近衛の他、松岡洋右、吉田善吾、東條英機が集まっている。この私邸のおかげで高級住宅地というイメージまで荻窪についたほどだ。近衛は、1945年12月16日、戦犯の容疑者として拘束される直前、この館で服毒自殺している。その後、吉田茂が一時期ここを利用している。この屋敷の前の道は俺の散歩コースの一つだ。天沼と違って、こっちはアップダウンがあるんで、ウォーキングにはおい。そこにくると、だいたい3分の1くらいすぎたかなっていつも思う。  何年か前に、ディスカバリー・チャンネルで『コミックヒーロー・ベスト10』を見ていたら、アメリカのマンガ研究者が、『AKIRA』を代表に、日本のマンガには都市破壊が多いという特長があるが、それはヒロシマ・ナガサキの経験があるからではないかと分析していたけれど、確かに、グラウンド・ゼロに限らず、空襲の光景は影響しているかもしれない。幕府は、いざというときに備えて、江戸の道をわかりにくくしたが、まさか空から攻められるとは想定していなかっただろう。1976年3月23日に、『東京エマニュエル夫人 個人教授』などでお馴染みの俳優の前野光保が等々力の児玉誉士夫邸へセスナで突入するなんてこともだ。東京は直線と曲線が入り混じった都市、直曲の都市だ。ここのところ、海外の映像作家が東京を舞台にした映画を撮っている。日本のサブカルチャーをノイズとして使っているのはうまいなあと思ったりするが、残念ながら、曲線の道を効果的に描いているのを目にした記憶がない。教会通りは道幅が狭く、午前中に、飲食店に種類を運ぶ業者のライトバンが入ってくるのを見ることがあるけれども、いっぱいいっぱいで、消防車が通れそうにない。おまけに、日中、みずほ銀行の脇の駐禁スペースを不心得者の自転車が占領している。火事になったら…禁煙の教会通りを火のついたタバコを手に歩いている奴にはわかんねえだろうな、この気持ち。太宰治も買っていたというタバコ屋の乙黒商店も同意してくれることと思うよ。  うちに行くには、荻窪西友の前の横断歩道で青梅街道を渡り、みずほ銀行荻窪支店脇の教会通りを進むわけだが──こう自宅への道すがらについてしゃべっていると、舟木一夫の『ロックンロールふるさと』を思い出してしまうけども──、マンションの前の道の名前を俺は知らない。でも、別に、知りたいとも思わない。困っていないからだ。けれども、他の国ではそうもいかない。道の名前から住所がつくられているからだ。ニューヨーク・タイムズ紙本社の住所は” 620 Eighth Avenue New York, NY 10018”で、日本の朝日新聞東京本社の場合は「104-8011東京都中央区築地5-3-2」。この「築地」は居住ブロックであって、道の名前じゃない。道が町そのものであり、家はその両側に建てられているのに対し、日本においては、家の建っているところが町であり、道はそのブロックの間にあるスペースだ。  ブルックリン橋で考えはじめたことは、白昼夢のように、俺の頭のなかで毎日あたためられていた思索であった。すなわち、はげしい日常の活動のさなかに感じられる人生の単調さ、退屈さに関する本のことであった。俺は何年もむかしから、その本について考え、毎日それを(頭のなかで)書きつづっていたのである。しかしその日は、沈みゆく夕陽や、燐光を発する死骸のように光っている摩天楼を、橋の上から眺めながら、過去の思い出にふけっていた。下を通りすぎる船。フォール・リヴァー定期船、アルバニー・デー定期船。俺はなぜ勤めに出かけるのか? 今晩俺は、なまあたたかい女の裸身のかたわらで、いったいなにをしようというのか? 逃げ出そう。そしてカウボーイになるんだ。河だ。ええ、めんどうくさい。まっさかさまに飛びこむか。いや、死ぬのはまだ早い。あと一日待て。運が向いてくるさ……。おそらく俺が(生れ故郷であり自宅のあるブルックリンと、職場であり遊び場であるマンハッタンの)両岸の中間の高い位置におり、人の往来を眼下に見おろし、生も死も超脱し、しかも両岸には高い墓石が落陽に映え、河は悠然として時の流れのように流れていたせいかもしれない――そして、俺がその上を通りすぎるたびに、なにものかが俺のそでを引き、俺をそそのかして、自己を語らせようとしたのかもしれない。いずれにしろ、俺は、その高い橋を通りすぎるときには、いつも心底から孤独になり、そうなるたびに、あの本はひとりでに書かれはじめ、俺が一度も表明しなかった意見、一度もかわしたことのない会話、一度も自認したことのない希望や夢や妄想を、声高らかに絶叫しつづけるのであった。 (『南回帰線』)  ヘンリー・ミラーが都市を放浪するとき、道を彷徨っている。でも,東京の俺はそうじゃない。居住ブロックの間をうろつき回っている。ヘンリー・ミラーの道は他の道につながっている。俺の道はそうかもしれないし、行き止まりになるかもしれない。地図でも見なきゃわからない。  道という点では、東京は避難所と言うよりも、まさしく迷宮だ。俺にこんな経験がある。ポーランド人のアンナが桜上水の知人宅に預けていた荷物をとりにいくというので、それにつきあったことがある。そこに行くのは5年ぶりということもあり、記憶も曖昧で心もとなかったのを覚えている、アンナは俺とはほとんど日本語で話す。  あれは、いわゆる永田メールの件で、前原誠司が民主党の代表を辞任した日だ。アンナと紀伊国屋書店新宿南店に向かう途中、新宿駅南口界隈で、どっかのテレビのレポーターがおばちゃん三人組にインタビューしてたのを目にする。「何聞いいてんのかな?」と思っていたら、夕方のTVニュースが辞任を伝えていたので、んなことを尋ねてたんだろうなと納得したことを覚えている。  アンナはボストンで日本語を教えている。元々は日本文学の研究者で、あのときは博士論文を準備していたが、何作か日本の小説を訳すなどすでに実績は相当ある。ジンチョウゲが好きなアンナはストレートの長い金髪を真ん中で分け、太いフレームの角ばった黒のサングラスののった鼻がシュテフィ・グラフのように目立つ。所々白っぽくなった茶色の革ジャンに薄目のブルージーンズ、紺地にピンクやグリーンの模様の入ったセーターをやせすぎに見えるその身にまとっている。足元はオレンジの柔らかそうな革のシューズ。背は俺と同じくらい。まるでパティ・スミスみたいな70年代ニューヨークのパンク・ロッカーだ。俺の格好も、柄の閉じない金縁でうずらの卵大の黒いレンズのジャン=ポール・ゴルチエ、チャコールグレーと化してしまった黒革のハーフ・コート、ボタンダウンの面影がかろうじて残るエンジ色のランズエンド、過去には濃紺だったリーバイス508、物持ちがよすぎるのも考えものだと母親に呆れられた18年前のモスグリーンなはずの紐なしピエール・カルダンってとこ。  桜上水駅の南口から出ると、太陽がほぼ真正面からまぶしかったから、11時はすぎていたと思う。一方通行の狭い道路があり、閑散とした雰囲気で、キリン・ビールの黄色い立て看板が置かれた白い壁の居酒屋か小料理屋があった気がするが、詳しくは思い出せない。アンナは小型の黒のスーツケースの上に同じく黒革のボストンバッグをのせて、そこからおもむろに地図をとり出す。俺は、アンナの17インチのノートPCの入った黒革の鞄を左肩に食いこませながら、それを覗きこむ。  「何これ、ローマ字表記なの?」  アンナは重信メイのような声とアクセント、イントネーションでこう答える。  「地名はガイジンには難しいから」。  「確かに。日本人でも『御徒町』は知らないと読めない」。  「えーと、新宿がこっちだから、南は上向きで…あれ、どっちだ?」  アンナは、くるくる回しながら、地図の方向を確認している。実際、地図上の道が入り組んでいて、今どこにいることさえよく把握できない。  「ねえねえ、街の子山羊はねネエ〜と鳴く」  「何それ?」  「昔読んだ『テレビ小僧』ってマンガにあったギャグ」。  「そのマンガ知らない」。  「うん、知らないと思うよ。日本人でもほとんど知らないはずだから。でも、俺は好きなんだ」。  「ちょっと気散らさせないで。えーっと」。  佐川急便の運転手が空の手押しトラックを片手に走って通りすぎる。  「人に聞こうよ〜」。  「記憶をたどる。その方が文学的じゃない?」  「Marcel Proust?」  「あたし、マドレーヌ・ケーキつくるの得意よ」。  「これ失われているんじゃないもん。迷っているだけだど〜」。  「道は未知なるものよ」。  「ああ、そうね。その通りです!でもさ、聞いた方が早いって」。  「早いだけがすべてじゃない!Slow Food Movement知らないの?」  「知ってるけど、普通さ、迷子になると、外国人の方が日本人よりも道を聞く傾向があるんだけどねえ」。  「何それ?」  「本で読んだんだけどね、日本語を教えに海外に行ってた教授が、道に迷うと、自分はまず地図を見るけど、アメリカ人だろうと、ベトナム人だろうと、とりあえず人に道を聞くってさ。これって逆じゃん?」  「いいじゃない、だったら。日本人以上に日本人だから、日本文学のことがよくわかる」  「ほら、お巡りさん」。  目の前を自転車に乗った40歳前後の警官が通り過ぎていく。自転車がかわいそうになるくらいにどっしりとした体躯で、背筋を伸ばし、少々外股にしてこいでいる。  「当局には頼らない」。  「それって社会主義体制のトラウマ?でも、こんな歌もあるんだからさ」。  もしもし ベンチでささやく お二人さん  早くお帰り 日が暮れる  野暮な説教 するんじゃないが  ここらは近頃 物騒だ  話の続きは 明日にしたら  そろそろ広場の 灯も消える  「何それ?」  「知らない?ダメだなー!曽根史郎の『若いお巡りさん』」。  「ソネシロー?あの坂本龍一とキスした?」  「それは清志郎!」  「いつの歌?」  「確か〜、俺が生まれるずーっと前、1950年代」。  「そんなの知るわけないじゃない!」  「ダメだよ〜それじゃ〜日本文学の研究者とはとても、と・て・も・言えない。だいたい、これ、ピンゥレディの『ペッパー警部』の元ネタだよ」。  「もおいい!集中しなきゃ」。  おたまじゃくしみたいなヘアー・スタイルをした30歳前後の女性がベビー・カーを押して、通りすぎていく。  「聞いた方が早いと思うなあ〜」。  「文学的な方がいいの。よし、こっちに間違いない」。  「本当に〜?大丈夫〜?」  「大丈夫!時は見出された!」  アンナは東を向き、右手を勢いよく正面に伸ばして、人差し指で示し、歩き始める。まるでモーゼだ。俺は、鞄を右肩にかけ直し、足を引きずるように、小声で「歩きたくな~い 歩きたくな〜い 私は元気じゃな〜い」と歌いながら、ついていく。  息絶えてしまえば、たとえ渾沌のなかにあっても、あらゆることが判然としてくるものである。そもそもの当初から、渾沌以外のなにものもなかった――俺をとりまき、俺がエラで呼吸していたものは、あいまい模糊たる流動物であった。おぼろにかすんだ月が不変の光を投げている下層部は、静穏で肥沃だったが、上層には密林があり、不協和音があった。俺はすぐ、あらゆることに矛盾と対立を見、現実と虚構のあいだの諷刺と逆説を感じとった。俺自身が俺の敵であった。俺はなにもしようと思わなかったが、また思ってもできないことばかりであった。なんら不足のない子供のころですら、俺は死にたいと思った――苦労することに、なんらの意義も認められなかったので、すべてを放棄したかった。自分で求めもしなかった人間生活をつづけても、なにひとつ得るところがなく、なんらの実証も得られず、プラスにもマイナスにもならないような気がした。俺の周囲のものは、ほとんど落伍者であり、落伍者でないやつは、ひどく不愉快な人間ばかりであった。とくに成功者がそうであった。成功者には、じつに閉口させられた。俺は過失に対して同情的であったが、俺をそうさせたのは同情心ではない。それは、人間の不幸をかいま見ただけで顔を出すある純粋に否定的な性格――弱点――のせいであった。俺は役にたつつもりで他人を助けてやったことは一度もなかった。ほかにどうすることもできなかったのである。事態を変えようとするのは、しょせん無益なことのように思われた。心を変えないかぎり、なにごとも変らないと私は確信していた。しかし、人間の心を変えることのできる人がいるだろうか。ときおり友人が改宗したという話を聞くと、俺は胸がむかついた。神が私を必要としないように、俺もまた神を必要としなかった。もし神が実在するものなら、俺は堂々と彼に会って、その顔に唾を吐かけてやりたいものだと、しばしば心のなかでつぶやいた。  (『南回帰線』)  『北回帰線』を筆頭に、ヘンリー・ミラーの作品は、はっきりとした筋がないため、小説ではないとしばしば批難されている。  語り手自身も、『北回帰線』を小説ではないと次のように述べている。  ではこれは何だ? これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の棄損だ。言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、「芸術」の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美…なんでもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ。俺は手前らのために歌おうとしている。すこしは調子が外れるかもしれねえが、とにかく歌うつもりだ。手前らが泣きごとを言っているひまに、俺は歌う。手前らの汚らしい死骸の上で踊ってやる。  歌うからには、まず口を開かなけれならぬ。一対の肺と、いくらかの音楽の知識がなければならぬ。かならずしもアコーディオンやギターでなくてもいい。大切なのは歌いたい欲求だ。そうすると、それが歌だ。俺は歌っている。  俺はお前に向って歌っているんだ、タニア、お前に向って。できることなら、もうすこし上手に、もうすこしうるわしい調子で歌いたいのだが、それだと、お前はきっと俺の歌を聞いてくれる気にならないだろう。お前は他の奴らの歌うのを聞いた。だが興冷めしてしまった。奴らは、あまりにみごとに歌いすぎたか、みごとさが足りなかったか、そのどちらかだ。  その『北回帰線』のプロットは次の通り。作家志望の「俺」はフランスに来て3年になる。職も家もないけれども、座談の才能を生かし、友人たちのアパートを転々としながら、彼らにワインと金、女をねだったり、くすねたりしている。ニューヨークにいる妻モーナから当初は送金もあったが、今では手紙さえ途絶え、俺は彼女から見捨てられてしまったと悲嘆にくれている。しかし、ある日、突然、もうなにも頼りにせず、湖に身を任せて動物のように生きようと決意し、だれにも希望がないからこそ、パリの生活は楽しいのだと悟る。ところが、ディジョンの高校で英語教師として過ごした一冬は惨めなもので、新聞社の編集部に空きができたと知るや、無断でパリへ逃げてしまう。ノイローゼに陥った友人のフィルモアを言いくるめて、無理やりアメリカに帰国させ、まんまと2800フランをせしめる。俺はそれをポケットに入れ、セーヌ川のほとりでその流れを眺め、もうニューヨークには戻らないと思う。  しかし、『北回帰線』は小説と考えるべきである。筋は大切であるとしても、小説は描写である。演劇や映画にも筋はある。小説固有の点となると、散文による固有性への具体的な描写である。後藤明生のように、描写をしないという方法もあるが、それ自体小説が描写だということを意識している証拠だ。  小栗公平は、『映画を見る眼』において、小説の言葉を固有さの描写だと次のように述べている。  私たちは小説を読んで物語の面白さ、物語れることのよろこびを知っています。もちろん小説のよろこびを一様に物語という枠でくくることは出来ませんが、詩の言葉と違って小説のそれは、描写し、叙述することで、概念を具体まで導きます。花、という概念から、私の家の庭の、少し斜面になっているところに、一本だけ顔を出した福寿草の花が、昨日、などと具体に向かうとき、私たちはすでにそこで、物語られていることを受けとめ始めています。  言葉は物語を作り出す、といったら間違いでしょうか。小説に限ったことではないのかもしれませんが、私たちは言葉という抽象が辿る「道筋」を、物語として解釈しているといえる気がしないでもありません。  小説においては、描写それ自身が物語を語り出す。描写は固有さを書き表わすことであり、その固有性が描写の具体性につながる。描写の傾向がその作家の文体となる。描写は認知に基づき、それはナラティヴや登場人物の言動に表象される。  人が服を選ぶとき、まず場面、次に着衣者の特性、アクセサリー、形・色・生地という優先順位に従っている。同様に、言語表現において認知には優先順位がある。しかし、場面に応じて言葉遣いを変えることはあるとしても、これは社会性を優先させる服飾とはいささか異なっているため、思いこみにとらわれやすい。日本語の場合、一人称、二人称、三人称、生物、もの、ことという順序で主語になりやすい。一方で、どの言語でも違いがない優先順位もある。「部屋に入ると、スチール製の机の上の『北回帰線』があった」と言うが、「部屋に入ると、『北回帰線』の下にスチール製の机があった」とは言わない。けれども、文法上誤っているわけでもない。認知心理学の用語を用いるなら、この場合、『北回帰線』が「図」であり、机は「地」である。  しかし、人は個人的経験・関心・資質、職業上身ついた性向によって、この認知の優先順位が入れ替わる場合がある。組織を描くときに、一人称単数ではなく、一人称複数が優先的なることくらいは直観主義的に理解できよう。「図」と「地」が逆に認知されてしまうことがある。机に人並みならぬ個人的な関心を持っていたり、机を製造している企業の開発担当だったりすれば、机こそ「地」になるだろう。どんな領域にも特有のリテラシーとコミュニケーションがあり、それに基づいて認知の優先順位が決まる。個人的な傾向の描写はできていても、社会的認知の志向ができていない作家は、もちろん非常に丹念にその点を描写する表現者もいるけれども、意外と少なくない。本来、そうした固有性への認識は、小説を書く際に必須の最低条件である。それを指摘し、問題視できないとすれば、その読み手は社会性が欠けていると言われても仕方がない。「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識 を規定する」(カール・マルクス『経済学批判』)。  同じ対象であっても、扱う領域によって、アプローチやウェートが異なることはアカデミズムに携わるものなら、容易に理解できるだろう。大衆社会における行動様式を研究するとしても、社会学、文化人類学、政治学、社会心理学、実験経済学などでそれぞれ違う。リテラシーも認知の優先順位も異なっていることは、研究者なら承知していることだろう。また、同じ化粧品会社のサラリーマンやOLだって、開発や営業、経理、広報でそれぞれものの見方が違う。さらに、警視庁の捜査一課と二課、三課、四課が同じ手法や認識だったら、それこそ分ける必要などない。けれども、ろくに書き分けのできていない文学作品がまかり通ってしまっている。ミリタリー・マニアは戦略について論じるが、実際の参謀は輸送についてまず考えると言われるが、読者を含め文学をめぐる現状は、残念ながら、この前者の段階にとどまっていると言わざるをえない。  ドリフのコントには、ベルトルト・ブレヒトの言う「社会的動作」が思考を規定している人物がしばしば登場する。時刻表よろしく帰宅や食事など一切のことを定刻通りこなそうとし、夫婦の夜の営みでさえ指差し確認してしまう駅員。家を訪れると何段の祭壇がいいか考え始め、人が横になっていると測って棺桶の長さを調べてしまう葬儀屋。  確かに、これはテレビのコントの話であるが、文学作品において自分の思いを優先するあまり、「社会的動作」に意識を向けていない作家ががっかりさせられるほど多い。役者が役作りを工夫するが、それはエージェントや捜査官においてより体系的に行われている。麻薬や盗難美術品をめぐる囮捜査・潜入捜査にはある種の人間になりきることが欠かせないし、各国の当局が容疑者のプロファイリングをしている。映画の製作にはダイアローグとストーリーなどそれぞれに担当がいるが、さらに細分化している。キャリー・フィッシャーは、メリル・ストリープやウーピー・ゴールドバーグといった女優が演じる女性のセリフをチェックしている。女性の言葉は女性にネイティヴ・チェックというわけだ。社会的動作は、ある意味、ベイズの定理の応用例だとも言える。作家にも、まったくしていないとは思わないが、こういった姿勢や努力がより必要だ。2007年、「元」とつく書き手によるその経験や認知を回想した種類の本がよく読まれたのも、そうした知的貧困さが一因だろう。  表現に伴うもっと基本的な注意さえ払っていない場合もある。若桑みどりは、『イメージの歴史』において、日本の公共彫刻にはイメージの意味をろくに調べず、思いつきや思い込みでつくられたものが少なくないと批判している。本来、イメージは、ギリシア十字架が正教会を指すように、普遍的であって、一義的な意味を象徴している。そのイメージが何を意味しているのかを集めた事典も刊行されている。イメージは、元々は他とそれを区別するために選ばれたけれども、次第に、アイデンティティを指し示すようになる。表現行為をする際には、当然、こうした事典を調べ、イメージのリテラシーに従っていなければならない。  こういった指摘は一見些細なことへの揚げ足とりと思うかもしれない。しかし、そうではない。そこには社会的他者を軽視している現われだからだ。かりに日本を舞台に、2007年12月19日の設定の作品があるとして、そこで葬式を描いたとしたら、その作者は思いつきのみで書いたと見てまず間違いない。この日に葬儀はありえない。暦を見てみろ。友引だ。葬儀屋も焼き場も休みだ。葬儀屋は彼ら独自の暦に従って生きているのであり、そこから世界を認知している。人は結婚式を挙げないですませられるとしても、葬式をしないわけにはいかない。こういう社会的な他者のものの見方は新鮮だ。そういうのを俺は読みたい。作家にとって、登場人物は他者であり、その他者のものの見方を通じて生きてみることで作品の深みや厚みにつながる。作品に対して作者は神でも、独裁者でもない。彼らに自由を認めるとき、作者も自分の思いこみから自由になれる。それは、日本語教師が日本語を外国語として捉えているように、自分を他者として考えることである。「自分の思いこみから自由になること。これが自由にとって、なによりも難しいことなのだけれど」(森毅『地図にない未来』)。  遊軍とは、各支局が相互のあいだで一日か半日だけ融通しあう配達人のことである。一〇一もある各支局のどの一つも、十分な人員をかかえていなかった。したがって、俺はその間隙を埋めるために躍起となって人を雇い入れ、一方ハイミーは、遊軍の駒をチェスのように動かしていなければならなかったのだ。おそらく配達人要員のうちで固定しているのは2割くらいなもので、あとはみな浮草であった。なかには、一時間働いただけで仕事に見切りをつけ、電報の束を屑箱やどぶに捨てて、やめてしまうものもいた。しかも彼らは、やめるとすぐ給料を払ってくれと要求するのである。彼らは、揃いもそろって、生来の嘘つきばかりであった。その大部分は、何度も雇われては馘になった経歴の持ち主であり、なかには、他の職を探すための絶好の足がかりと心得てくるものさえあった。  あるものは、地下鉄のなかで消え、あるものは摩天楼の迷路のなかで行方不明になった。またあるものは日がな1日エレベーターに乗って遊んでいた。なかには、スタッテン島へ出かけて、ついでにはるばるカナリア諸島まで足をのばすやつもいたし、また昏睡状態になって警官につれもどされるやつもいた。ニューヨークの要員として雇ったやつが、1カ月後には、けろりとしてフィラデルフィアの支社にあらわれることもあった。また、会社から支給された制服を着たまま新聞を売っていたものもいる。また、あるものは、なにか奇妙な自己防衛本能にかられて、まっすぐ留置場へ行ってしまった。  彼らは、あとからあとからひきもきらずに押しかけてきた――仕事を、タバコ代を、車代を、チャンスを求めて。おねがいです、神さま、もう一度チャンスをめぐんでください! 俺は自分の机に釘づけにされながら、電光のごとき速度で世界じゅうを旅行してまわった。そして、どこへ行っても同じように、飢えや屈辱、無知、悪徳、貪欲、搾取、陰謀、拷問、独裁、人間が人間に加える残虐行為、手かせ足かせ、鞭、拍車のあることを知った。彼らは、あのぶざまな屈辱的な最低の制服をまとって、ニューヨークの市中を歩きまわった。しかも、彼らのなかのじつに多くが、世界を支配するにふさわしい人間であり、他に類のない偉大な本を書くにふさわしい人間であった。 (『南回帰線』)  思いつきと思いこみで作品を書く小説家の代表として村上春樹が挙げられる。彼の小説は始まり=終わりという円環構造を持つ「ロマンス」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)である。最初に結末が提示され、個々の要素は目的論的にそれに到達すべく奉仕している。このロマンスは、そのため、作者の願望を最も反映しやすい。登場人物はしばしば超人的な力を持っていたりするものの、精神的な厚みに乏しく、作者の操り人形の印象をぬぐえない。精神性の点では期待すべくもないが、現実界と言うよりも、それを揺るがすような創造界を示す効果があり、世界の多層性を示すときに用いられるジャンルである。ロマンスは、極めて意識的に、方法論的姿勢でパロディとして執筆されなければならない。ただし、多くの場合、特に長編では、村上春樹の主人公は「ぼく」、つまり一人称である。三人称であっても、実質的には、一人称と言える。意味=無意味さの拮抗において、無意味さをアイロニカルに選び、自意識の優位さを確認する。人にとってかけがえのない人やもの、数字、出来事、思い出などは、一般的な評価基準にあてはまる場合もあれば、一部の熱狂者の間で認められている場合もあれば、内輪でのみ共有されている場合もあれば、ただ個人的にそう思っている場合もあるだろう。それこそ千差万別だ。けれども、村上春樹は自意識の優位さを確保できる選択肢を選びとる。空想的な物語であっても、主人公が混乱した状況に置かれながらも、最終的に自意識の優位さが獲得される。村上春樹の作品に共通しているのは固有名詞の忌避に要約できる。固有名詞は、金田一秀穂が指摘しているように、命名の瞬間に立ち会える。それには、最初こそ偶然であったとしても、何らかの歴史や経緯ついてあり、任意ではない。  かりに村上春樹の作品にサルが登場してきたとしても、それに意味はない。別に、ヘビだろうとネズミだろうとかまわない。とりあえず使ってみただけで、そこに謎はない。文化放送のアナウンサー水谷加奈は、『よっぱらい』の中で、ある飲み会で記憶をなくすほど泥酔したとき、「もしも今だれかに生まれ変われるとしたら、だれになりたいか」という問いに対し、「みんなが、松阪大輔だとか、宇多田ヒカルだとかいっている中で」、「加奈だけ、”私、わき毛の生えないわきの下になりたい〜”」と答えたと記している。謎とはこういうものだ。そこに何らかの固有性が感じられるとき、謎は生じる。  何かと言うと、村上春樹は、名古屋の地下街のような意味ではない「地下」を描き、口にする。しかし、俺には水道局に勤めていた50代の親戚がいる。法事くらいしか会うこともないが、酔っ払うと始める水道の話にいつも心奪われる。水源、上下水道システム、水道管の口径、蛇口の数、水の質、地下水、汚水処理など水道というアンダーワールドの状況がとどまるところを知らない。「あそこの坂のところに、ポツンと一軒家があんだろ?あれは勝手に建ててんだけど。水道使ってなかったんだよ。そんでさ、あそこに水道通して、俺、市長に感謝されたんだぜ〜。あのあたりはさ、地下に水がいっぱいあっから、掘りゃ出るんだよ。だから、水道引いてなかったわけよ。金もったいねえとかってよ。だけどさあ、感染症なんかその水からだされっると、そのうちだけの問題じゃなくなんのよ。うちの勝手ですじゃすまねえのよ。またさあ、違法に建てるからって、水道通さないってわけにもいかねえんだわ。水道って社会的なもんだからさ。だから、水道料金って、あんだけ安くさ、抑えてんのよ。で、俺、そこんち行ってよお、いろいろしゃべってさあ、何とか通したのよ。それで市長から感謝されてさあ、あんときゃあ嬉しかったなあ。21世紀はなあ、水の時代。水!日本は水に不自由してねーと思ってんだろ?でも、そいつは違うんだ。食糧自給率低いだろ?てことは、食いもん輸入してんだ。食いもん育てるにはよお、水が要ったろ?な?ってことは、食料輸入してるってことは水輸入してんのと同じってことなのよ。ヴァーチャル・ウォーターってんだぜ、これ。俺、水好きなんだよ。水は大切だぜ〜。人間はよお、ずーっとガソリンなしで生きてきたけどよお、サルのころからよお〜水なしじゃあ生きられんもんな〜あ」。水道には、固有のリテラシーがあり、それに従った認知の優先順位がある。アンダーワールド自身ではなく、それが俺には興味深い。こんな社会的他者と接するのは快感だ。村上春樹にとって、「地下」は自分本位の願望にすぎない。  前年の昭和35年11月3日、戦後最大の争議となった三井三池炭鉱のストライキは終わった。ボタ山の上でハチマキ姿の向坂逸郎さん(故人)が炭労の組合員に、涙ながらに「われわれは負けたのではない」と、なおもハッパをかけていた姿を、これまた取材に行って見ていた。石炭にかわる石油の時代はもうそこまで来ていた。これ以上がんばれ? 何をがんばればいいのだ? と問いたい気持ちで聞いていた。 (岡崎満義『スタンカ』)  私は、三池闘争の敗北のあと谷川鴈が指導していた大正炭坑の労働組合に対して、吉本孝明が次のような意味のことを書いたのを印象深く記憶している。彼は闘争の展望などについて何いわずに、ただ、君たちのところにはまだ「快楽」が残っている、それがあるうちになめるように味わっておくがいいと書いたのである。私は当時その意味がよくわからなかったが。六〇年代の高度経済成長のあとで、私は「快楽」の何たるカをやっと理解した。  漱石にとって”地底”は市民社会から排除された者が行くところであり、従ってたんに「苦痛」の場所である。だが、視点を変えれば、そこはまさに「快感原則」の世界なのだ。 (柄谷行人『階級について』)  地底の消失は地上の町が消えることも意味している。閉山により、多くの人々がそこを去らざるをえない。地方は人手を失い、都市に人口が集中していく。  石油の時代のなっても、石炭は依然として使われている。石炭の火力発電所も少なくない。その上、石油価格が高騰すれば 石炭を含めたほかの化石燃料の重要度が増すのは自然の成り行きである。しかし、スタグフレーションは石油時代でなければ、起き得ない。スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油というのは、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は。限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。地下の実在をさまざまなデータによって正当化しようとすることは、スタグフレーションが何たるかを理解していないだけである。  世界を描くには、政治・経済・社会・文化を創造しなければならない。法や制度、産業、インフラ、教育、技術、宗教、習慣、芸術、建築、服飾、言語など、しかも、ただ考案すればいいというものではない。それぞれに共時的・通時的な固有の知識・技能を持たせる必要がある。法一つとっても、法の支配なのか、法治主義なのかではまるで法体系が違ってしまう。世界構築にはリテラシーとコミュニケーションに関する鋭敏さが不可欠である。むしろ、重要なのはこちらの方である。  世界の多層性を提示するのが目的であるとすれば、ロマンスの真の主役は世界であって、登場人物ではない。そういう特徴がある以上、現代のロマンスの作者は個々の登場人物の固有性に繊細となり、それを書き分ける描写力を身につけていなければならないが、村上春樹はその点に関心がないと言わざるをえない。ロバート・ロドリゲスやティム・バートンがB級映画の手法を意識的にとり入れて優れた作品を撮っている。しかし、村上春樹の不備の場合、そういった自覚的な方法はない。次に引用するのはほんの一例である。ヘンリー・ミラーは、自分にも他人にも、非常に鋭い小説家としての観察眼を示していたが、ここからはそれが感じられない。  『ノルウェイの森』の冒頭に、ドイツ人客室乗務員が登場するが、彼女が次のような態度で機内の気分が悪そうな乗客に接することはない。  飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。  僕は頭はりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。  やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分が悪いのかと英語で訊いた。大丈夫、少しめまいがしただけだと僕は答えた。  「本当に大丈夫?」  「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこり笑って行ってしまい、音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのものごとを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。  飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。  前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。  「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It’s all right now, thank you. I only
  felt lonely, you know)」と僕は言って微笑んだ。  こんな失礼な物言いではなく、たとえカタコトであったとしても、”Thank you for asking me, but I’m fine
  now. Don’t be afraid of me, please! It has made me a little nervous”と最低限言えないのかと呆れてしまうところだが、それはひとまずおいておこう。実際、航空機の中で、そうと気づかずに、ずいぶんと無礼な言い方をしている日本人乗客の姿を見かけることも少なくない。  ちょっとした専門的な分野というのは、まんがの中に入れると、特色が出てきておもしろいものです。ただし、よく知らないで描くと、ウソっぽいものになって、お話がういてしまいますから、資料を集めてリアリティを出すことが大切です。 (さいとうちほ『さいとうちほのまんがアカデミア』)  東京ディズニー・ランドで遊ぼうとしていた金正日の息子が強制送還されたその日、俺はクアラルンプール行きのマレーシア航空に乗っている。朝日だったか読売だったかの元記者が俺の後の席に座り、結構なペースで酒を飲み、フィリピン上空辺りにはもうすっかりメートルもあがり、マレー人女性の客室乗務員をつかまえて、英語で話しかけ始めている。ブルーに近いグリーン地にエスニック柄の民族衣装風の制服の彼女は腕を組み、小渕恵三元首相に似た彼の隣の席が空いているのに、立ったまま聞いている。三分位して、紳士としてあるべき態度にようやく気づいた彼に促され、プレイメイトのカリン・テイラーを思い起こさせる彼女は初めて腰掛けている。客室乗務員として適性があると判断されて航空会社から採用され、訓練を受け、経験を積んでいる以上、その言動・思考には規定されている。固有のリテラシーに則って感受し、思考して、行動してしまう。彼女とは帰りの便も偶然一緒となり、あれこれ話をしたので、間違いない。「取材をしながら、自分の世界を広げてください。恥ずかしがらずに、どんどんやってみましょうね」(『さいとうちほのまんがアカデミア』)。なお、当時、マレーシア航空の出発待機時のBGMは坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』である。あのとき、” The wounds on your hands never seem to
  heal…”とデヴィッド・シルヴィアンの”Forbidden Colours”を歌う声が聞こえたのは、決して幻聴ではない。  何らかの学問的裏づけに基づいているわけではなく、あくまでこれは妹の経験からだが、ドイツ人と日本人の細かさは、かりに駅を譬えに使うと次のようになると思う。前者が駅に電車が出てからのことに繊細になるのに対して、後者は駅に電車が着くまでに執念を燃やす。ドイツ人はどうすれば迷わず目的地に向かう電車に乗れるかに苦心し、日本人は時刻表通りに駅に電車を到着させられるかを美意識にしている。たとえ初めてでもドイツの駅で迷子になることはないが、日本だと妹は新宿駅でさえいまだにわからなくなり、東京駅ではもうお手上げだ。  現代の小説家は情景や心理だけではなく、リテラシーを描写しなければならない。現代小説は方法の文学である。情景・心理描写についてはさまざまな方法論が展開されてきたが、正直言って、リテラシーにおいてはまだまだ不十分である。老人介護にも特有のリテラシーがある。気持ちや根性、情熱だけでできるものではない。リテラシーへの着目は障害や病気、老いなどマイノリティーへの眼差しにもつながる。また、リテラシーが思考の枠組みをある点で決定するとすれば、すでに過ぎ去った時代の人々がどのように考えていたかを把握することにも助けになる。近代以前のテキストは心理描写に関心がないことが多く、それを知るには、むしろ、服飾や化粧のリテラシーをたどる方が有効である。また、失われたかつてのテクノロジーを再現して、当時の人々の思考や行動を探る研究も進んでいる。異民族を理解するのにも適当だ。もっとも、この服飾や化粧による心理分析は、同時代的においても描写の際に参考にする必要がある。各種データが示している傾向が直観主義的な思いこみと違うことは作家たるもの承知しておくべきだ。リテラシーの描写は社会的・歴史的他者の小説化である。そもそも、小説が演劇や映画と同じくコミュニケーションに属しながらも、区別されるのは、その固有のリテラシーを持っているからである。言ってみれば、リテラシーは共通理解であり、その領域で通時的・共時的に共有されている。固有さを描写するには、リテラシーの認識が不可欠である。  事実----女なんてものは、みんな似たりよったりだね。服を着ているときの女を見ると、あらゆる事を想像する。個性みたいなものがあると誰でも考えるが、むろん、そんなものはありはしない。両脚のあいだに割れ目があるだけのことさ。そいつに男はみんな夢中になるんだ----ところが、誰も、そいつを時間の半分も見るわけじゃない。あれがあすこにあるのだと知って、考えることといえば、ただそのなかに銃杖をさしこむことだけだ。まるでペニスが代りに考えてくれてるようなもんさ。 (『北回帰線』)  描写に関して、ヘンリー・ミラーは非常に意欲的である。「私は、およそ考えうるかぎりのいっさいの表現手段を探求する」(『黒い春』)と公言するヘンリー・ミラーは、ジャクソン・ポロックを思い起こさせるように、多種多様の表現を配置している。もっとも、後に発表した水彩画からはポロックとは少々異なった画風である。遠近感はあまり感じさせず、鮮やかな色彩をにじませるように、描いている。『北回帰線』には、口語、文語、俗語、隠語、卑語、学術用語、造語などが散りばめられている。また、写実主義、自然主義、表現主義、サンボリズム、シュルレアリズム、ダダイズムなどの表現方法もとり入れられている。  アレクサンダー三世橋。橋に近い大きな吹きさらしの空。陰気な裸の街路が、その鉄格子で数学的に固定されている。廃兵たちの陰鬱が円屋根から湧きあがって、広場の隣の街路に溢れ出ている。詩の死体置場。  俺がそう言っているあいだに、彼女は俺の手をとって股にはさんでしめつけた。便所で、俺はものすごく勃起して、便器の前に立った。翼のある鉛の棒かなんぞのように、それは軽くもあり、同時に重いような気もした。  クリュゲルは、あの狂ってしまった聖人の一人であり、マゾヒストであり、きちょうめん、正直、自覚を自分の法則としている肛門型の人間であった。  エルザが八百屋に電話をかけている。鉛管工が便器の上へ新しい台をとりつけている。ドアのベルが鳴るたびにボリスは冷静さをうしなう。興奮してコップをとり落とす。彼は四つん這いになる。フロックコートを床に引きずっている。ちょっとグラン・ギョールに似ている。   今日まで、俺の身に起こったことは、一つとして俺を破壊するほどのものではなかった。俺の幻影以外、なにものも破壊されなかった。この俺は無傷だった。世界は無傷だった。明日にでも革命か、疫病か、地震が起こるかもしれない。明日にでも、同情を、救いを、誠実を求めうる人間は、ただの一人も残らないかもしれない。  世の中には秘教的という言葉が神聖なアイコオ(気状液)のごとく作用する人々がいるらしい。『魔の山』のヘル・ピーパーコルンにとってのセトルドに似ている。  硫黄で点火されて俺のそばを通りすぎて行く音や女たち。カルシウムの征服をまとって地獄の門をあける門番たち。松葉杖にすがって歩く名声。それらは摩天楼のために小さくなり、機械の歯につけた口で擦り切れるまで噛みくだかれる。  この多様さは、それぞれのリテラシーを十分に理解しているからこそ、可能になっている。ヘンリー・ミラーは非常に巧みに模倣し、見事なパロディを書き上げている。これは「メニッポス的諷刺」ないし「アナトミー」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)と呼ばれるべきだろう。対象ではなく、その文体の固有性を描写することに意図が感じられる。ヘンリー・ミラーは対象をそのままと言うよりも、役者が演じるように、既存の文体や用語法を通じて描く。座談の際には、ただしゃべるより、声色を変えたり、表情を作ったりするほうが相手のハートをつかみやス。『北回帰線』はまさあしく座談の文学であり、ファティック・コミュニケーションが具現されている。  けれども、たんなるいいとこどりじゃない。『北回帰線』は全体として自己組織化されている。ルドルフ・シェーンハイマーは、福岡伸一の『生物と非無生物のあいだ』によると、「生命とは動的平衡(Dynamic Equilibrium)にある流れである」と言っているが、『北回帰線』はそれを具現している。見るべき点は、この全体の動的平衡であって、個々の描写の多様性ではない。しかし、動的平衡が保たれていると指摘するだけでは不徹底というものだろう。一歩間違えば、ヘンリー・ミラーの作品だって、ジョージ・ルーカスが封印した“The
  Star Wars Holiday Special”になりかねないところだ。なぜそうなっているのかを突きとめなくてはならない。  ヘンリー・ミラーは、作品を通じて、ライフを書いていると次のように述べている。  私がものを書くのは、より大いなる現実をうち立てようためである。私は現実主義者でもなければ自然主義者でもない。私は生命の味方をするものであり、生命は文学においては夢と象徴を駆使することによってのみ得られる。私は心底では形而上的な作家なのである。 (『自伝的ノート』)  私にとって作品とはそれを書いた人間である。したがって私の作品は私という人間である。ぼんやり者で、投げやりで、向う見ずで、狂熱的で、卑猥で、騒々しくて、考えこみがちで、ウソつきで、小心翼々とした、そのうえ悪魔のように誠実な私という人間なのである。私は自分を一つの作品とも一つの記録ともみなさない。私は自分を一つの現代史、否、あらゆる時代の歴史であると考えている。 (『黒い春』)  ライフには動的な平衡状態がある。それを書こうとすれば、どのように動的平衡を体現させるかを方法化する必要がある。  たとえばスタヴロギンについて考えてみる。するとぼくは、何か神聖な怪物が高いところに立って、おのれの臓腑を引きちぎってわれわれに投げつけている光景を思いうかべる。憑かれた狂気のなかで大地は震撼する。それは架空の個人にふりかかる災厄ではなくて、人類の大部分が埋没し、永久に抹殺される大天変地異である。スタヴロギンはドストエフスキーであり、ドストエフスキーは、人間を麻痺させ、ないしは頂点へ引きあげるそれらいっさいの矛盾の総和である。彼にとっては、あまりにも低いがゆえに入りこめぬ世界というものは存在せず、あまりにも高いがゆえに登るのが怖ろしいという場所もなかった。彼は深淵から星にいたるまで、全世界を通りぬけた。神秘の核心に身をおき、その閃光によって闇の深さとひろがりとをはっきりとわれわれに照らしだしてくれる人物に二度とふたたびめぐりあえる機会がないのは残念である。 (『北回帰線』)  日常生活を描くことに最も自覚的だったのは、おそらく、映画監督の小津安二郎だろう。小津とヘンリー・ミラーは、表面的には、およそ似通った点は見当たらない。しかし、小栗康平によるその小津映画の分析は、ヘンリー・ミラーのライフに関する方法の理解に、非常に有効である。  小栗康平は、『映画を見る眼』において、たいした筋のない小津映画が作品として平衡状態を持っていることを次のように解説している。  小津安二郎監督は、映画固有の形式にもっとも自覚的な映画監督でした。小津さんはプロットで語られる映画を嫌っていましたから、題材は家庭、家族から取られるものが多く,とりたてて劇的なものはありません。小津さんの映画を物語で語ろうとすると、どれがどの映画の話だったのかわからなくなってしまうほど、同じように思えるものがたくさんあります。  そうしたことを批判された小津さんは、豆腐屋にビーフステーキを作れといっても出来るものじゃない、がんもどきぐらいなら作れるかもしれないが、それが精一杯だといったといいます。見事なものです。  豆腐であれがんもどきであれ、忘れ難い映画でした。ことに、戦後の何本かの映画は、小津さんのスタイルがはっきりしていて、「東京物語」になると完璧な映画に思えます。これまであちこちでたくさん書かれていることでしょうが、私なりに小津映画の特徴に触れてみます。  「東京物語」は、尾道に住む老夫婦が旅行の支度をしている座敷から始まり、ラストもそこに戻り妻が死んで片方が欠けた状態が示されて終わります。同じ場で、同じ構図が反復されることで、変化(を受け入れる生きる私たち)がくっきりと定着されています。ドラマは大きな変化を求めていないのに、私たちが受け取る「変化」は決定的なのです。ふつうであれば、ドラマを変化としてとらえます。小津さんはそうではありません。この、ことの正逆がまず小津さんならではのものです。妻の死は、ドラマの要因ではあるけれど、拡大されません。避けがたい日常の断面としてあるだけです。  久しぶりに父母を向かえる東京の息子の家では、子供の勉強机が廊下に出されます。それが面白くなくて、子供はお母さんの後を着いて家の中をうろうろします。その動きに乗って、廊下や部屋、階段がていねいにとらえられています。暮らし向き、家族構成、人物の性格がここで示されることにはなりますが、それが主眼ではありません。人物のいない場面を空舞台といっていますが、これらの描写では必ずといっていいほど、人物がそこにフレーム・イン(空舞台に人物が入ってくること)しています。人物がそこからフレーム・アウトした後にも、その空舞台が残ります。人物をドラマの主体と考えると、この空舞台はただの余白しか過ぎませんが、ここではそうではありません。空舞台が人物の不在を伝えています。場を主体としたら、人物、人物が欠けた状態、いなくなった状態です。存在と不在とが、小津映画の中では交互に訪れます.大きなシークエンスでも小さなエピソードでもそうです。  外へ出掛ける、外から帰ってくる、そうした場面もよく繰り返されます。これも存在と不在。そしてなによりも死という不在。  東京の娘や息子にも家庭の事情があり、父母を十分にもてなしてはくれません。戦争で死んだ息子の嫁がまた一人でいて、血もつながらないその嫁のもとで、老いた父母が心を休める、話は厳しいものですが、父母は、まあまあだよと、たんたんとしています。そう心掛けています。  ドラマを起伏としてとらえて図に描けば、こうなるのでしょう(略)。平常があり、きっかけが生じ、問題が発展してピークを迎え、それがまたカーブを描いて静まっていく、そういう曲線です。そのカーブは問題によって、人物によって、急激に昇りつめるものであったり穏やかに時間を要するものであったりさまざまでしょうけれど、なんらかのピークをもっということでは同じかもしれません。  小津さんはどんなときも注意深く、このピークを避けています。起伏が激しく現れるその前で、あるいはそれがおさまった後に、各場面を設定します。劇が発展して行くことを避け、迂回します。 これは劇が起伏を作らないだけではなく、映州のムーブメント、動きを封じていくことになります。  そのかわり、といっていいかどうかはわかりませんが、とんなに日常的な会話のカット・バックであっても、それらをプロットを運ぶためのもの、とはとらえません。以前、小津さんのカット・バックには目線が合っていないものがある、ということをいいましたが、それには理由があります。  二人の人物が向かい合っています。目線を合わせるためにお互いに画面の右寄り、左寄りを見なければなりません。小津さんは正面に近い目線をとることが多いように見えます。はっきり目線が重なっているように見えるときは、だいたい次カットが入れ込みになっていて、人物は二人いっしょにとらえられています。  目線が正面目で、それも多少なりともその向きがズレている理由として、画面の構成を変えたくないという考えがあったかもしれません。右を見たり左を見たりすれば、鼻の向きが違う顔が交互に映ることになり、形式を壊しかねません。視覚に余分なリズム、動きも生じてしまいます。小津さんはこれを嫌ったのでしょう。  もう一つ、もっと大事なことがここにはあります。カット・バックは、相手がこういったからこう答える、という流れを作りますが、しかしだからといって、それらはその流れにただ従属はしていない、小津さんはそういっているのではないでしょうか。一つひとつのカットを、独立させるために日線をズラした、そのようにも思えるのです。  セリフは受け答えであり、その結果がプロットを運ぶことにはなりますが、それは会話の一面でしかありません。日常では、ふつうにそう思っていることです。なぜなら、そのとき私たちは物語を知りません。物語が先にあるわけではないからです。私たちは話をしていて、答えたことだけが自分であるとは考えていません。話したことを含めて自分である、そう考えているだけです。つねに自分は残りつづけています。自分が残りつづけている分だけ、画面での目線は相手からわずかにズレて、独立します。これもフレームで世界を切り取ることで成り立つ映画の独自な形式です。  劇を発展させない、場を主体とする、会話を物訴に従属させない、こうしたことが重なりあって、小津さんの映画の文体が作りあげられています。言語と違って論理としての文法を持たない映画は、それに代わるものとして、確固とした形式を所有しようとします。  形式というとすぐに、形式主義と軽んじられてしまいそうですが、そうではありせん。文法も、これこれこういう約束事のもとに、という形、形跡の確認です。ただ映画の形式は言語のように普遍化しません。小津さんの形式は小津さんだけのものです。自分は豆腐しか作らないというのも形式です。自分はここからものごとを見るという、映画の形式です。よくいわれる小津さんのロー・アングルも、そうした形式の端的な現れです。形式が映画の文体を作り、その形式は作り手が一人ひとり作りだすものであるとすれば、映画の文体はまさしく多様であるべきでしょう。  小津映画では、筋は重要ではない。日常生活、すなわち暮らしはそれに従って進んでいつわけではないからだ。会話は筋に従属せず、独立している。また、出来事の連鎖として物語が展開されることはない。ピークを迎えようとすると、それが注意深く避けられている。演劇のように、簿ないし空間への人の出入りによって物語が進行し、同じ構造でありながらも、そこに表われる微妙な違いが提示される。その変化は小さく、作品内で拡大されることもないが、決定的である。それは意味や無意味ではなく、残り続けたものが受けいれざるを得ないものである。意味=無意味の転倒などこの成熟した表現の前では未熟な戯言にしか感じられない。「ズレ」を方法論とする批評家は,概して、読解の際に、この差異を拡大する傾向があるが、それはアイロニーにすぎない。ズレは日常性を表わすのに、非日常化してどうする?『東京物語』は村上春樹のようなロマンスとは異なっている。最初と最後は一致しない。構造は同じだが、ほんのわずかだけ違っている。自意識の優位さを確認する物語ではなく、やりくりしながら生きていく人々の日常の暮らしの姿である。実際に日常では、存在と不在が繰り返され、いつかそれは生と死へとたどり着く。がらんとした部に戻ったとき、人はやっぱりもうあの人はもういないのだと実感するものだ。日常を描くには場を主体にしてこそ可能なのでであって、自意識を主体にしてはありえない。  小栗康平による小津映画の批評を読むとき、村上春樹への賞賛は虚ろに思えてならない。俺は、夜酔っ払うと、時々、無性に小津や黒澤明の映画を見たくなる。実際、そうしている。『北回帰線』を読むときにも、それらはよく合う。  奔放で、いかがわしい『北回帰線』が静かで端正な小津映画が通じ合っている点という意見は突飛に思えるかもしれない。『北回帰線』でも、会話を含め、個々の要素は筋に対して独立している。また、これといった出来事もない。しかも、冒頭と結末は同じ構造をしていながら、微妙に変わっている。自分への人や物、情報の出入りによって『北回帰線』が展開されている。登場人物のヘンリー・ミラーは主人公でさえない。たんなる場だ。ヘンリー・ミラーは自分自身ではなく、その場への出入りを書いている。このようにして動的平衡が保たれている。ヘンリー・ミラーは暮らしを具現化した作家だ。『北回帰線』以後の作品もほとんど同じとなっているのも、ヘンリー・ミラーが固有の「形式」を獲得したからにほかならない。 If I could save time in a bottle The first thing that Id like to do Is to save every day Till eternity passes away Just to spend them with you If I could make days last forever If words could make wishes come true Id save every day like a treasure and
  then, Again, I would spend them with you But there never seems to be enough time To do the things you want to do Once you find them I’ve looked around enough to know That you’re the one I want to go Through time with If I had a box just for wishes And dreams that had never come true The box would be empty Except for the memory Of how they were answered by you But there never seems to be enough time To do the things you want to do Once you find them I’ve looked around enough to know That you’re the one I want to go Through time with (Jim Crocce “Time in a Bottle”)  午後9時から始まったディスカバリー・チャンネルの『20世紀の偉人:モハメド・アリ』が終わったというのに、妹はまだ戻ってこない。まあ、ボツボツ帰ってくるだろう。カボチャ自身がはずれだったので、決してうまいとは言えないが、寒い中を帰ってくるんだから、ほうとうは温かくていい。しかし、股間がピリピリする。柚子を湯船に長く入れすぎていたかもしれない。エビス・ザ・ブラックの酔いが回れば忘れるだろう。これならエアコンも要らない。んー、しかし、地球にやさしい生活は肝臓にはやさしくない。あいつはギネスの方が好きだから、ザ・ブラックも俺に飲まれた方が幸せだ。二日酔いの朝に『マルセリーノの歌』が聞こえてくるが、最近は、そういう機会がない。いい傾向だ。  テーブルのイエメン産の乳香の香りを感じながら、ベージュのカーテンを左手で中指の長さくらい開け、右手で窓の結露を拭いて外を見てみる。雨がしとしとと降り、部屋の蛍光灯の明かりが庭を覆う雨粒に当たり、にじむように乱反射している。窓を開けたら、吐く息が白くなるだろう。防犯灯が切れている。仕事納めの前までにはさとハウスに連絡しなきゃ。  『北回帰線』は次のように幕を閉じる。  人間は異様な動物や植物をつくっている。遠くから見れば、人間はとるに足らぬ名でもないものに見える。近寄るにつれ、集鬼、悪意にみちたものに見ある。何物にもまして、彼らは十分な空間をもってとりかこまれている必要がある──時間よりも空間が必要なのだ。  太陽は沈みかけている。俺はこの河が俺の中に流れこんでゆくのを感じる──その過去、その古代よりの上、その移り変る風土を。丘々は、やさしくその周囲を囲繞している。だがその行程は一定しているのだ。  太陽はもう沈んでいる。けれども、まだあたりは明るい。一年で一番長いはずの夜はいつ始まっている?現代社会の夜に暗闇はもうない。人は太陽以上に月や星を見つめ、暦を作成したり、占いをしたり、方角を判断したりしてきた歴史がある。でも、俺にはそうした人類の歴史を感じることができない。明るくて月も星も見えやしない。蟹座はどこだ?蟹座は春の星座の中では最も西寄りに位置し、限りなく冬に近い。でも、雨が降っていなくて、ふさわしい季節であったとしても、見えないに違いない。だから、「河」などどこにも見当たらない。歴史から切り離されている。暗闇は屋内に人工的につくられている。社会の矛盾や問題は明るさによって隠されている。暗さによってではない。なるほど、俺の場合は緑内障だけでなく、飛蚊症もあるから、視野欠損に、黒い糸くずが浮遊しているのが見える。キサラタン点眼液をさっき注したけれど、まあ、いずれ俺の目からも光が失われてしまうだろう。それは別に、社会の暗闇などどこにある?アンダーグラウンドなどどこにある?心の闇だって?光は明らかにすると同時に、隠す。ハジキだってヤクだってそこにあるじゃないか!子供の手の届くところにあるじゃねえか!裏社会にひっそりとあるんじゃねえんだ!光の届かぬところに何かが潜んでいるのではない。光自身がそれを隠蔽している。まぶしすぎる光は視力を奪う。エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の手紙の隠し方のように、一番身近なところに見落としたものや目を背けたくなるものが潜んでいる。 暗いのが夜じゃ。 夜まで昼のように明るくては困る。 星も見えないような 明るい夜なんて嫌だよ
    (黒澤明『夢』)  玄関の鍵の回る音が響き渡る。  「ただいまー!」  「おう、お帰り」。  さあ、火入れっか。 〈了〉 参考文献 ヘンリー・ミラー、『北回帰線』、大久保康雄訳、新潮文庫、1969年 ヘンリー・ミラー、『南回帰線』、河野一郎訳、講談社文芸文庫、2000年 ヘンリー・ミラー、『母、中国、そして世界の果て』、生田文夫訳、エディション・イレーヌ、2004年 トゥインカ・スィーボード編、『回想するヘンリー・ミラー』、本田康典他訳、水声社、2005年  『ヘンリー・ミラー全集』、新潮社、1966-71年 相原茂、『はじめての中国語』、講談社現代新書、1990年 石川統、『環境と生物進化』、放送大学教育振興会、2002年 岩谷徹、『パックマンのゲーム学入門』、エンターブレイン、2005年 内田樹、『村上春樹にご用心』、アルテスパブリッシング、2007年 江川温、『新訂ヨーロッパの歴史』、放送大学教育振興会、2005年 大久保康雄、『ヘンリー・ミラー』、早川書房、1980年 小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送協会出版、2005年 笠原潔他、『音楽理論の基礎』、放送大学教育振興会、2007年 柄谷行人、『マルクスその可能性の中心』、講談社文庫、1985年 柄谷行人、『終焉をめぐって』、講談社学術文庫、1995年 金田一秀穂、『新しい日本語の予習法』、角川oneテーマ21、22003年 金田一秀穂、『ふしぎ日本語ゼミナール』、生活人新書、2006年 金田一秀穂、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版教会、2007年 さいとうちほ、『さいとうちほのまんがアカデミア』、小学館、1990年 柴田元幸、『アメリカ文学のレッスン』、講談社現代新書、2000年 田澤晴海、『ヘンリー・ミラー研究』、芸林書房、1996年 高野陽太郎他、『認知心理学概論』、放送大学教育振興会、2006年 高橋淳子、『東京「農」23区』、文芸社、2007年 玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1990年 筒井正明、『ヘンリー・ミラーとその世界』、南雲堂、1973年  道明三保子他、『アジアの風土と服飾文化』、放送大学教育振興会、2004年 豊田泰光、『オレが許さん!波瀾万丈交友録―語り継ぐべき昭和の先達』、ベースボールマガジン社、2006年 豊田泰光、『豊田泰光のチェンジアップ人生論』、日本経済新聞社、2006年 鳥飼玖美子、『歴史をかえた誤訳』、新潮OH!文庫、2001年 長谷川眞理子他、『進化と人間行動』、放送大学教育振興会。2007年 原田信男、『日本の食文化』、放送大学教育振興会、2004年 福岡伸一、『生物と無生物のあいだ』、講談社現代新書、2007年 藤田紘一郎、『共生の意味論』、講談社ブルーバックス、1997年 藤原帰一、『国際政治』、放送大学教育振興会、2007年 藤原康晴他、『服飾と心理』、放送大学教育振興会、2005年 文藝春秋編、『助っ人列伝 プロ野球意外史』、文春文庫ビジュアル版、1987年 ヘンリー・ミラー研究会、『日本におけるヘンリー・ミラー書誌』、北星堂書店、1986年 本田康典、『ヘンリー・ミラーを読む』、水声社、2000年  水谷加奈、『ON AIR 女子アナ 恋モード、仕事モード』、講談社文庫、2001年 村上春樹、『ノルウェイの森』上下、講談社文庫、2004年 都甲潔他、『自己組織化とは何か』、講談社ブルーバックス、1999年 森毅、『あたまをオシャレに』、ちくま文庫、1994年 森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006年 若桑みどり、『イメージの歴史』、放送大学教育振興会、2000年 カール・マルクス、『経済学批判』、武田隆夫訳、岩波文庫、1956年 ヴァルター・シュミーレ、『ヘンリー・ミラー』、深田甫訳、理想社、1967年 キングスリー・ウィッドマー、『ヘンリー・ミラー』、田中西二郎他訳、北星堂書店、1971年 イーハブ・ハッサン、『沈黙の文学 ヘンリー・ミラーとサミュエル・ベケット』、近藤耕人他訳、研究社、1973年 ブラッサイ、『作家の誕生ヘンリー・ミラー』、飯島耕一他訳 みすず書房、1979年  ノーマン・メイラー、『天才と肉欲 ヘンリー・ミラーの世界を旅して』、野島秀勝訳、TBSブリタニカ、1980年 ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年 メアリー・V・ディアボーン、『この世で一番幸せな男 ヘンリー・ミラーの生涯と作品』、室岡博訳、水声社、2004年 DVD『エンカルタ総合大百科』、マイクロソフト社、2006年 DVD『「朝日ニュース映画で見る」 昭和』全8巻、日本映画社、2006年 DVD『夢 Akira Kurisawa‘s DREAMS』、ワーナー・ホーム・ビデオ、2003年 The Star Wars  http://video.google.com/videoplay?docid=323909610753051544 Wagner James Au, Second Life:  荻窪警察署、「管内の知識」 http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/ogikubo/mytown_ogikubo/mytown_ogikubo.htm 佐藤清文、「リテラシーと批評─リテラシー・スタディーズ」 http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/ls.html http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/ls.pdf 佐藤清文、「情報化社会と協律─自己超越の欲求の時代」 http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/conomy.html http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/conomy.pdf 佐藤清文、「三文批評─ベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』」 http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/brecht.html http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/brecht.pdf | |||||||||||||||||||||